江北図書館
漂着日 2008年10月
気持ちいい秋風が列島吹き抜ける頃、再び近江路へとやってきた。今回訪ねた
のは県北部、俗に「湖北」と呼ばれる地域である。
起点は北陸本線近江塩津駅。福井との県境に近く、琵琶湖の北端に位置する。
琵琶湖西岸を走る湖西線と繋がる駅でもある。
駅前を関西と北陸を結ぶ国道8号線が走っているが、周囲は長閑な田園風景で
人家も少ない。8号線を越えて集落に分け入ると直ぐ旧道に取り付いた。此処が
旧塩津街道で律令の昔より開かれ、畿内と北陸を結ぶ最短路として人荷の往来頻
りだったという。紫式部も通ったようで、長徳2年( 996)越前国守として下向
する父藤原為時に従った際にもう少し北の深坂越えで詠んだ「知りぬらぬ往来に
ならす塩津山 世に経る道はかろきものぞと」との歌が残されている。もちろん
紫式部のような貴族の娘が歩いてということはなく、輿に揺られての道中だった
のだろう。
ほぼ南北に走るこの道を南、琵琶湖方面へと歩き出すがこの集落内には古街道
感じさせる風情といったものは見られない。
道はほどなく国道8号線へ合流し、暫く行くと天保5年建立の街道常夜灯が据
わっている。石造りの立派なものだが基部には「海道繁栄」の文字が刻まれてい
る。塩津街道は琵琶湖北端の塩津湊と越前国敦賀の津を結び、水運を繋ぐ道だっ
たので一体のものとして「海道」の語が使われることも多いようだ。
敦賀からは主として越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡6ヵ国の産物、米・
鰊・鱈・昆布・布などで塩津湊から湖上を大津へと渡り、更に京、大坂へと運ば
れた。また畿内からの逆コースの産品は着物・反物・陶器・漆器・茶・蜜柑など
であったという。
更に少し行った所で再び8号線を越え旧道へと入っていくと道の両側には趣あ
る昔ながらのといった家並みが続いている。此処が塩津浜の集落で、塩津宿と呼
ばれることもある。塩津湊を擁し物流の拠点として大いに賑わったそうである。
出格子の元旅籠など江戸時代から戦前の建物も多く残っていて街道の雰囲気漂
わせている。江戸期には物資の荷捌き差配する問屋が6軒、旅籠約10軒、造り酒
屋、醤油醸造元などが軒を連ねていたという。
この賑わいは明治期まで続いたが北陸本線の開通で物資の流れが変わり、衰退
の道歩み始めたとのことである。
約1q続く町並み抜けると目の前には琵琶湖が広がり、塩津湊の跡へと出る。
かつては琵琶湖独特の帆船丸子船が頻繁に出入りし喧騒の中荷物の積み下ろしが
されていたのだろうが今は人影もなくひっそりとし、大津の湊にも引けを取らな
いとも言われた面影は何処にもない。僅かに往時偲ばせるものとして石積みの船
着き場跡が残されているが、それも何処か寂しげである。
この日はこの後琵琶湖に沿って時計回りに3qほど下りた飯浦から山越え(と
いうほど大したものではないが)して余呉湖へ抜け、予約しておいた湖畔に建つ
国民宿舎へと入った。
古く設備も貧弱だが静かで落ち着ける宿。夕食は金もないし1人で御馳走食べ
てもなと何段階かあるうちの一番安いクラスを頼んでおいたのだが、案内された
席に並んでいたのは最も豪華な会席膳だった。「間違ってない?」と指摘したら
「大丈夫です、どうぞ」と勧められたのでそのまま賞味してきた。察するにこの
日泊まっていた他数組の客が皆高いクラスだったので、一人だけ安い料理作るの
は面倒と揃えた模様。大らかとも言え、適当とも言えるか。料理は旨かったし、
得したことは間違いないが、それほど嬉しくもない。不満もないが。
さて翌日。秋天高々と澄み渡るといった快晴の下、まず賤ヶ岳へ。標高421mと
ささやかな膨らみなので登山と呼ぶほどでもないが、頂上からの眺めはいい。琵
琶湖と其処に浮かぶ竹生島、余呉湖、伊吹山そして湖北の田園風景などを見渡す
ことが出来る。
羽柴秀吉と柴田勝家が信長亡き後の覇を競った「賤ヶ岳の戦い」でも知られる
が、さあどの辺りが戦場であったのか、知識もなく調べてくるほどの関心もなか
ったので判らぬまま下りてきた。
余呉湖とは逆に下れば其処は木之本(まあ賤ヶ岳山頂も木之本町だが)。北国
街道の宿場町で、名古屋・東海方面への近道北国脇往還(伊吹山麓を抜け関ヶ原
宿へと達する)と分岐する交通の要衝としてまた木之本地蔵院の門前町として繁
栄した。
生糸の産地でもあり、特に賤ヶ岳山麓の大音・西山地区は「糸引きの里」とも
呼ばれ、琴や三味線など邦楽器の弦に使われる良質の絹糸を産した。もちろん盛
んだったのは戦前の話だが今も何軒かが「坐繰り」という独特の手法で糸を紡い
でいるそうだ。
水上勉「湖の琴」は若狭からこの西山の里へ糸繰り女として奉公に来たさくと
いう娘が浮世の浪風に翻弄され、京都まで流されていって望まぬ子を身籠り、最
期は自ら命を絶ち、その亡骸が恋人の手により余呉湖へ沈められるという切ない
物語だが、私が木之本を知ったはこの小説に拠ってだった。
と言っても、実の処は作品を読んだのではなく、「湖の琴」を解説しつつ文学
散歩風に木之本、余呉湖を取り上げた新聞文化面の記事で興味持ったということ
なのだが。
もうあれは十数年も前になるか。それまでにも北陸本線は何度も利用している
から、木之本という地名(駅名)は目にし、耳にもしていたのだが、通過ばかり
で何の知識もなく関心もなかった。以前にも書いたがどうも滋賀県には冷たいよ
うだ。
ただその記事には心動かされた。なにやら趣ある家並みが続き、琴の音も漂う
情緒ある町であるかのように思われ、行ってみようかと、関心むっくり起き上が
ってきたものだ。
そして直ちにとはいかなかったが、割りと早く、翌年には北陸経由で西日本へ
抜ける旅の計画立て、木之本訪れている。確か3月のよく晴れた日だったか。ど
うしても私の旅は青春18きっぷを使える時期が多くなる。
その時は木之本には泊まらず電車で来て1時間余気の向くままに歩き回り、ま
た電車で去っていくといういささか慌ただしい訪問だった。旧街道沿いには宿場
の面影もあり、戦前の洋風建築も残されていて、それなりの味わいある町だが期
待ほどでもないなというのが正直な感想。琴の調べが聞こえてきそうな気配もな
かった。
実は当初予定は2時間だったのだが、町歩きにも直ぐ飽きてしまい、というか
目の前に続く道がそれほど私の気を惹くものでもなかったので、これ以上此処に
いても意味ないなと1列車早く撤退した。
斯くの如く、初回の木之本の印象あまり芳しいものではない。
その後「湖の琴」も読んだがあまりに筋立てが平板でこちらもそう感心はしな
かった。描写力はさすがだが、初出が新聞の連載小説だけに間延び感がどうしよ
うもない。この内容でこんな分量いるのか、と思った記憶がある。当然ながら作
品読んでもう1度木之本へとはならなかった。
そして時は流れて2008年、すっかり記憶の底の沈んでいた木之本へ再び足を踏
み入れた。その目的は言わずと知れた図書館。此処に先頃 100周年を迎えた歴史
豊かな図書館があると知りやって来たのだ。
その図書館があるのは木之本駅前。駅に面してはいないが1分と掛からぬ所に
建っている。長く風雪に耐えてきたこと感じさせる年季の入った白壁とアーチ型
の窓を持つ木造洋風建築である。昭和初期に建造され、1975年の図書館転用前は
農協(伊香農業協同組合)事務所だったそうで、2階建だがそう大きくはない。
玄関脇に掲げられた銘板の墨字はかすれているが、なんとか読める。
名前は「江北図書館」。「こほく」と伸ばさずに発声するそうである。近江の
北部にあるということだろうか。
実はこの図書館これまでこのHPで取り上げてきた各館とは決定的に違ってい
る点がある。私が訪ねたのも歴史あるからではなく、この特異性に興味覚えたか
らと言える。
それは何かというと世間一般にある図書館が県や市町村など自治体により設置
運営されているのに対し江北図書館は財団法人が運営する私立民営の図書館とい
う点である。
もちろん日本にも民営図書館は都市部中心に少なからず存在する。ただその多
くは宗教法人や業界団体などが広報活動兼ねて設けたものや、また研究者の死後
に所蔵資料を公開したいわゆる専門図書館であるのに対し江北図書館は地域の住
民を対象とし、児童書から小説、暮らしの本まで並べ無料で開放し、貸出もして
いる「公共」図書館で、民営でこの形態とっているのは今の日本では稀有な例と
言える。
歴史的に見れば、戦前図書館の黎明期には篤志家が私財提供して開設した民営
の図書館も多かったが、多くは時代とともに自治体に移管され市町村立図書館へ
と姿変えていった(財政難などで消滅した館も多い)。此処はそうならずに民営
のまま 100年の歳を重ねた訳だ。
江北図書館は苦学して弁護士となり、名声を得た杉野文彌氏が郷里の若者の為
に伊香郡余呉村(のち余呉町)に私財を投じて1902年(明治35年)に設けた「杉
野文庫」をその始まりとする。杉野氏は東京へ出て弁護士目指していた頃毎日大
日本教育会の図書館へ通って所蔵の法律書で勉強し「ああ図書館というものは便
利であり難いものである…自分が後日成功したならば是非図書館を建ててみたい」
との思い強く持ったという。
それが杉野文庫として結実したのだが、余呉にあったのでは利用者も少なく管
理も行き届かなかったので1904年郡都木之本へ移転する。その後財団法人の認可
を取得し(1906)、伊香郡役所所有の旧税務署建物を借りた「財団法人江北図書
館」が開館したのが1907年1月のことである。
その歩みは明治大正期のように郡役所及び郡有力者の協力を得て順風の時期も
あったが、1932年(昭和7年)杉野氏が亡くなり支援が途絶えた後は財政難から
幾度となく存亡の危機に見舞われることになる。それでも創設の志を継いだ人々
の頑張りにより運営は続けられ、2007年1月目出度く 100周年を迎えている。
以上は「江北図書館100周年記念」誌より引かせてもらった。
さて扉(引き戸だったか)開け館内へ。時代感じさせる玄関はそう広くない。
壁際に近隣自治体や各種サークル・団体が出しているイベント案内や会員募集な
どのチラシ類を並べたラックが置かれていて「公共図書館」感じさせる。
スリッパに履き替えて上がる。此処にもう1枚引き戸があるのだが、まだ爽や
かな季節とあって今は開け放たれている。
入ったのはさしずめ玄関の間といった小部屋で此処から左右の部屋に通じてい
る。正面に長机が置かれ、年配の女性が座っていた。此処が総合カウンターとい
うことになるか。
これまで図書館訪ねた時は館員と目が合えば軽く会釈する程度で済ませてきた
が此処は近い距離で面と向かって相対するという形になり、関門ではないけれど
見知らぬ人間が無言で通り過ぎるのも不躾なので、見学させて貰いたい旨告げる
と「どうぞどうぞご自由に」と笑顔で応じてくれた。
それではと更に進ませてもらう。向かって左手の細長い部屋は、手前が参考図
書、奥が児童コーナーとして使われていた。どちらもささやかな広さで、最奥の
カーペットが敷かれ子供たちが過ごす一画は一般家庭の居間ほどであろうか。
入口近くに1卓あり、椅子が6脚(4脚だったかも)添えられているが、これ
が閲覧席ということになるか。高校生が自習するのも構わないらしい。お茶も飲
めるようになっている。
この時よく晴れた平日の昼下がりだったのだが、この部屋に人影はなし。館内
全体でも利用者は年配の男性と女性が一人づついるだけであった。
再び受付前へ戻って、今度は逆サイドの部屋へ。先刻入ってきた時は背面だっ
たので気が付かなかったが、受付前の壁面には雑誌が並べられていた。多くはな
いが20誌はありそうだ。
もう一方の側が一般図書室。手前に4人は座れる応接セットが置かれ周りに本
棚配した小部屋がある。此処には小説類が並べられている。
奥が開架図書室だが、本がびっしり詰まった書棚があまり間隔置かずに立ち並
び、現代の感覚からすれば「書庫」と呼ぶのが相応しいだろう。広さは小学校の
教室1コ分もなく、木造校舎思わせる佇まいからもレトロ感漂っている。
そして図書室全体がうす暗い。それは照明を点けてないからで、どうやら人の
居る所にだけ点灯するシステムであるようだ。利用者は用のある棚の前まで行っ
て棚間の天井から下がっている手近の蛍光灯のひもを引っ張って灯りを点け、
本を選び終わればまたひもを引いて灯りを消し、その場を離れる訳だ。運営かな
り大変なんだろうなと感じさせられた。
棚は十進分類法で構成されている。小さい館だけに本は少なく全般に古めだが
そう痛んでもないようだ。ただ試みに「90分でわかる生命保険」という1冊を取
り出してみたら1993年発行のものだった。この手の本で15年前書かれたものが並
んでいるのもこの図書館の苦しい処表していると言えるかもしれない。
コンピューター管理はされていないので資料にバーコードは貼られていない。
借りる時は「館外図書借用申込書」に書名、名前、住所(2度目からは書かなく
てもいいようだ)、電話など記入して受付へ出す方式が採られている。
図書室一巡りして受付へ戻れば、先ほどの女性が同じように座っていた。さっ
き居た地元の人も帰って来館者は私だけになったようで、これはいい機会と少し
図書館のことを聞かせてもらった。この時はまだ 100周年記念誌などの資料も貰
う前で特に調べても来なかったので、100年の歴史持つ民営の図書館ということ
しか知らなかった。
まあ運営は大変なようだ。公的補助としては伊香郡町村会(木之本、高月、西
浅井、余呉の4町で構成)から年85万円出ているだけで専ら基本財産の運用益と
寄付で賄ってきたが、それも近年は超低金利で運用益は出ず、景気低迷の煽り受
けて寄付も集まらず徐々に基本財産を取り崩さざるを得ない状態に追い込まれて
いるという。
利用者も最近では1日15〜20人程度に過ぎないそうで、それはなんとも寂しい
ものだ。それでもこの女性が関わり始めた20年ほど前は賑わっていて、日によっ
ては昼食にパン1コ齧る時間を作るのがやっとなくらい貸出などの手続きに追わ
れたそうである。利用者が減った理由はやはり少子化、それと93年隣の高月町に
開架で12万冊規模の図書館が開設され、伊香郡在住、在勤、在学なら貸出も出来
るのでそちらへ流れた人も多いという。
実は私はこの後高月の図書館も訪ねる予定立てている。以前1度前まで行った
が中は見てない。近くにある渡岸寺の十一面観音像拝観とセットで高月訪れたも
のの、その時図書館は折悪しく休館中で寂しく外観眺めただけで立ち去ったのだ
が「ほうこんな小さな町に」と感心するほど堂々たる建物だった記憶がある。あ
の施設なら近隣から人呼び込むことだろう。
聞けば高月町は企業誘致に成功して大きな工場が幾つもあり、税収豊かでこの
辺では唯一の黒字自治体とのことである。そう言えば賤ヶ岳山頂に備え付けの望
遠鏡で周り眺め渡した時高月の方向に工場群のようなものが見えたな。
木之本町は財政的には振るわず、町立図書館はなく役場内に小さな図書室があ
るだけという。江北図書館を支える余裕もなさそうだ。
ではこの先江北図書館はどうなっていくのか、将来展望尋ねた処、今長浜市と
の間で合併協議が進行しているが、合併後は移管して新市の1地域館として存続
するのではないか――との答が返ってきた。
うーん其れしかないのか。孤高の歩み続けてきた江北図書館が公営図書館にな
ってしまうのはなにか勿体ないような淋しいような思いがある。
ただ自治体側も老朽化した施設で利用者も少ない此の図書館をそう易々と移管
するとも思えないのだが。さあどうなるのだろう。
この後「2階も見ていったら」と勧められ、通常は非公開の2階も見学。非公
開なのは勿体付けているのではなく、建物が老朽化しているので誰彼なく上げた
場合の事故を心配している模様。ただ上がって歩いた感じでは、まだまだしっか
りしていて危険覚えるようなことは全くなかった。
玄関脇から板張りの廊下を歩き――廊下には文庫本の棚があり、窓を背にして
椅子が3脚おかれている――木の階段上った2階は畳敷きの大広間で、7、80畳
はあるだろうか。中央部はポッカリ空いているが正面の壁際や端の方には書棚が
並んでいる。棚は揃いではなく高さ、形状共雑多で購入したというより地域の人
の持ち寄りかなと思わせる。広間正面には演台。此処がかつて地域の集会所だっ
た名残りであるそうな。
此処には古い本が集められていて、まあ書庫と見なしていいだろう。棚には明
治40年代博文社から出版の「帝国百科全書」という明治時代の百科事典数十冊も
並べられていて、物珍しさから手に取ってパラパラと頁繰ったりしてみた。
時折研究者が古い資料など当たりに来るそうで、文献的価値のある蔵書も少な
くはないようだが、保存状況はあまりいいものではない。受付の女性も「私達も
ボランティアのようなものですから」と言われてたが、とても資料管理に人手掛
ける余裕はないようだ。
その後再度受付へ戻り、滋賀の図書館をテーマに少し話して辞去。何故滋賀が
図書館先進県に成り得たかという点に関しては「県立の前の館長さん(前川恒雄
氏のことだろう)がよく啓蒙なさったから」という認識であった。100周年記念
誌、年表など戴いた。
表へ出れば恒例の如く振り返り、江北図書館眺める。レトロな建物も含め何時
までも残っていて欲しいとは思うが、現状でそれを求めるのは酷とも言えよう。
「再訪あるだろうか」とこれまで公営の館訪ねた場合にはまずなかった感慨湧
いてくるのも厳しい運営強いられる民営図書館故か。もちろんその気はある。た
だそれは時間との競争になるのだろう。
――2010年木之本町は高月、余呉、西浅井、虎姫、湖北の各町と共に長浜市
と合併したが(自治体名は長浜市)江北図書館はその後も変わらず民営図
書館として存続し、活動を続けている(2012記)――
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