高月町立図書館

                                                                      漂着日 2008年10月

 「湖北は観音の里」 滋賀県の北部を漂っているとしばしばこの文言を目にす
る。嘗てこの一帯に観音信仰を中心とした仏教文化が花開き、今も域内に多数の
観音像が祀られていることに由来し、時に町興しのキャッチフレーズとして使わ
れたりもする。
 実際高月町渡岸寺の国宝十一面観音像は拝観者が引きも切らず、また江州伊香
三十三観音巡りなどがあって、ツアーも頻繁に催行されては人を呼び込むなど観
音様の経済効果少なからぬものがある。
 その数木之本、高月、余呉、西浅井の伊香郡4町でざっと数十といった処だろ
うか。正確な数はこのHPではあまり必要ないなと詳しくは調べなかった。ただ
幾つかの資料を見て――観音像の総てが記載されてはいない――33観音を基に、
入っていない観音様を加えていくと4町で50以上になるのは間違いない。

 何故この僻陬の地と言ってもいい奥琵琶湖一帯に観音像が多いかというと、木
之本の東にある標高 992.6mの己高山(こだかみやま)が古代より仏法の山岳修
行の聖地として崇められ、奈良時代には奈良仏教に加賀の白山系山岳仏教、更に
新羅系仏教が習合する形で山上に己高山五箇寺と呼ばれる寺院群が形成されなど
独特の仏教文化圏を成立させていたことによる。興福寺系であったようで「興福
寺官務牒疏」という末寺記した資料には己高山寺院群の名もあるという。
 山上寺院群の筆頭が観音寺(鶏足寺と表わされることもある)で別院6寺、僧
坊 120を有していたと伝わるが、伊香郡の平野部にも多数の末寺を展開していた。
そしてこの観音寺の本尊が十一面観音だったので、傘下の寺もそれぞれに本尊と
して観音像を祀る処となり、それが湖北に観音像が多い理由となっている。
 観音像の多くは平安期の作らしいが、廃寺、火災、廃仏毀釈乗り越え今日これ
だけ伝わっているということは往時は倍する数があったのではないかとも推察さ
れる。
 己高山系仏教寺院の盛衰は激しく、比叡山延暦寺の天台宗系となったり真言宗
系となったりの歴史を経て今日では総て廃寺となり、山上には遺構が残るだけで
ある。

 特徴的なのは湖北の観音様たちは京都や奈良の仏様のように豪奢な伽藍に納ま
っているのではなく集落に一つはありそうな小さな寺や道沿いの観音堂に安置さ
れている場合が多いことで、いかにも里人の暮らしに寄り添ってきたという佇ま
いである。
 集落のお堂や少なからずある無住の寺にいらっしゃる観音様のお世話をするの
は地域の住民で、千年に近い年月を代々受け継いできた集落もあるという。戦国
時代織田信長の浅井攻めで北近江一帯は戦火にさらされ多くの寺や観音堂も焼失
の憂き目にあったが、村人は観音像を土に埋め、川へ沈め、また担いで山へ逃れ
るなどして護ったという逸話も残されている。
 今も所によって違うが、年単位、月単位の交代制で当番に就き、清掃など環境
を整えるのはもちろん拝観希望者が来れば鍵を開けて開帳し、間違いのないよう
拝観中も立ち会うという役を果たしている。中にはおぶく(御仏供)と呼ばれる
ご飯などのお供えを欠かさぬ所もあり、何かと大変なようだが集落の人達はそれ
を義務ではなく歓びとして捉えているともいう。「健康で観音様のお世話をでき
るのはありがたいことだ」といった心持であるらしい。

 井上靖「星と祭」には娘を琵琶湖のボート事故で亡くした(遺体はまだあがら
ない)主人公が7年後に湖畔の所縁の地訪ねた折誘われて渡岸寺(高月町)、石
道寺(木之本町)の観音像を拝観したことから思いがけず十一面観音像に惹かれ
ていく心の動きが描かれている。

 「十一面観音というものに架山が惹かれたもう一つの理由は、それが集落の人
々に守られ、何とも言えぬ素朴な優しい敬愛の心に包まれているいるということ
であった。利益にありつこうといったそんな気持ちは、みじんも十一面観音に奉
仕している人々には感じられなかった。
 架山には、十一面観音と、それに奉仕している信心深い土地の人々との関係を、
どのように言い現わしていいか判らない。きびしく言えば、信仰という言葉を使
っていいかどうかさえも判らなかった。信仰というものはあのようなものであろ
うか。それに縋って生きようという烈しいものは感じられない。ただ愛情深く奉
仕し、敬愛の心をもって守っているとしか思われない。
 架山は東京へ帰ってからも、自分たちが守っている観音様を褒められた時、お
堂の隅に坐っていた女の人たちの顔に現れた優しい笑いを忘れることはできなか
った。その笑いのことを思うと、心が何とも言えぬ優しく清らかなもので満たさ
れるのを感じた。そうした女の人たちの心の中にあるものを、信仰と言っていい
か、どうか知らない。信仰であってもいいし、なくてもいいと思う。信仰でなか
ったら、信仰というものになんの遜色もない別の価値を持ったものであるに違い
ないのである。」             井上靖 「星と祭」より

 これは石道寺の観音像を拝観した時の情景を思い起こしたものだが、井上自身
の体験でもあるのだろう。晩年は秋になると毎年のようにノーベル文学賞の受賞
を取り沙汰された巨匠だけに、平易な表現ながら鋭い眼力でもって集落の人々の
観音像への慈しみを捉えている。
 作品の舞台は1970年なので、今日までざっと40年の時が流れた訳だ。時代が変
わり、集落の住民も代替わりしているだろうが、人々の観音像への想いは今も変
わらないと思うし、実際湖北で粗略に扱われている観音様は一つもないはずだ。
 その辺りは個の次元ではなく、多年に渡り培われた風土として捉えるべきなの
だろう。
 観音像が沢山あるから「観音の里」ではないのだ。

 木之本から高月へ。江北図書館退出し次なる高月町立図書館へ向かう。一駅な
ので歩き選択し、木之本の家並み尽きる辺りからは畑地の間通る農道を秋の陽浴
びながら散歩気分でノンビリと行く。途中で町境越えたが、農道には標識もなく
其れとは判らなかった。
 高月町は人口1万人余り(09年版住民基本台帳では 10237人)。米作とスイカ
栽培が盛んな農村地帯でもあり、大規模工場の誘致にも成功し、工業出荷額、製
造業従事者も多いという側面も持っている。湖北地方唯一の黒字自治体という。
 元々はこの地にケヤキの古木が多かったことから高槻(槻はケヤキの古名)と
称したらしいが、平安時代の寛治年間歌人(正三位参議という高官でもある)大
江匡房が訪れ、此処は月の名所であるといった和歌を詠じたことから高月に改め
たと伝わる。
 その後高月村として明治期まで続いたが(村と名乗ったのはおそらく江戸時代
以降だろう)1889年(明治22年)明治政府の町村制施行に伴う7村合併で、新村
名が南富永村となり、字名としては残ったものの自治体名としての高月は姿を消
した。
 復活は1954年のことで、この年南富永、北富永、古保利の3村が合併したのだ
が新自治体名に高月が選ばれ、高月町が誕生した。域内で最大の字であったから
ともいうが、どうも明治期に開通していた北陸本線の駅名が高月で、地域にその
名が浸透していたからというのが確かな処らしい。


 図書館は北陸本線高月駅起点に取れば歩5分弱の所。町なかだが周囲に駐車場
など空間が多く、町外れっぽい感じもある。
 前ページ江北図書館の項でも触れたとおり中々立派な建物である。鉄筋コンク
リート造りだが黒瓦屋根を載せ和のテイスト醸し出している。書院風建築イメー
ジしているのだろうかとも考えたが、さあどうなのだろう。
 敷地も広く緑の庭園で包まれ環境はいい。図書館の案内では敷地 15000u、延
床面積1734uとなっている。高月町の人口は1万人強。この人口の町でこの施設
構えているというのは立派なものだ。江北図書館で聞いたとおり財政豊かなのだ
ろうな。

 入口は此れだけの建築物だけに当然ながら自動ドア。それも黒光りするスチー
ル製の重厚なもので、図書館でこれほど重々しい入口構えているのは見たことが
ない。
 もう1枚自動ドア抜けると1F図書室だが、ぐるりと視線巡らせた第一印象は
「意外と狭いな」。堂々たる館容だけにもっと広々としてるかと思ったのだが、
そうでもなかった。もちろん外からは全体見ているのに対し、中では書庫、事務
室、トイレ、階段部分など除いた図書室だけを見ているのだが、それが判ってい
ても意外感がある。
 後で歩測してみたら約24m×20mほどであった。例によりカウンター部は含ん
でいない。
 
 入っていけば左手にカウンターがある。カウンターを頭と見れば、丁度喉元の
辺りから入ってくる形になり、胴体の位置に図書室が広がっているというレイア
ウトである。
 カウンターを背にして立ち図書室を見れば、右サイド(表側)が児童コーナー
のようで手前から奥へ絵本コーナー、カーペット敷きのお話しコーナー、漫画コ
ーナー(滋賀の図書館では珍しい)と並んでいる。そして建物の裏側に当たる左
サイドが一般成人向けエリアであるわけだ。

 まず図書室を一巡。ここでは棚をしっかり見るというより軽く流すといった感
じで行く。例の如く児童の方には気が向かず、成人の棚へ足を向けたのだが、歩
き出して直ぐ「あれ何か違うな」と違和感覚えた。通常見る図書館と「棚模様」
がどこか違う。
 足を止め、改めて棚を眺めると「ああそうなのか」と答えは直ぐ得られた。棚
には成人向けだけでなく子供対象の本も一緒に並べられている。目に入るのは背
表紙なのだが、それでも一般成人向けに比べれば子供の本はカラフルで、タイト
ルにひらがな、カタカナが多く使われていることもあり、いつも見る景色とは違
って見えたのだ。
 通常ほとんどの図書館では大人向け、子供向けと対象に応じ、書棚を分けて配
架しているが、此処は同じ棚に区分けすることなく並べている。従って先に成人
の棚と書いたのは間違いで、この館では人文系であれ、自然科学であれ1項目に
つき棚は1つしかなく、大人も子供も同じ棚で本を探す訳だ。
 ただ小説類は一般向けと児童文学では作者が違っているからか、棚は分けられ
ている。また絵本は独自のコーナー作っていて、さすがに幼児までは一緒にして
いない。

 しかしこういう棚の作りは初めて見た。おそらく大人向けも子供向けも本質的
な違いなど何もないのだという考えに基づいているのだろう。実は私も調べ物を
する時稀にではあるが子供向けの本も参照することがある。子供向けといっても
中学生クラス対象のものだが、柔らかく噛み砕いて書いてあるので頭に入り易い
という利点がある。
 高月町民の評価のほどは判らぬが、一緒で特に不都合はないように思える。
 ただ本当に区別なく分類記号通りに並べてあるので、子供向けの本でも棚の上
部6段目とかに置かれていて、あれでは小さい子は取れないのではないかと、そ
れはちょっと気になった。

 188.52マ、367.3ス、762.34ベなど分類は4〜5次の図書記号付きと丁寧。330
台経済の続きに670台商業を並べたり、歴史と民俗学固めたりと十進分類表には
捉われぬ並びとなっている。
 本は多くない。開架12万冊と聞いていたのだが、成人向けと子供向けを一緒に
してこの分量では其処までないのではないか。飽く迄も感覚的なものだが。
 席は1Fには30席余りと此方もそう多くない。机の席、スツール席などが用意
されている。

 2Fは真ん中に吹き抜けがあり、その周りが幅広の通路スペースとなっていて
東側(入口があるのが南側)と西側に数室設けられている。
 南側の壁面には書架が置かれ此処には580〜590台の服飾、美容、食品といった
暮らし関連の資料が並んでいる。なにやら通路に置かれているといった感じで、
この構成しかなかったのだろうか。場所も冷遇されてるが、分類もジャンルによ
っては5次まで分けてる館にしてはこの辺り雑で、最近私が興味持って見ている
食品などもっと分けた方が本も見つけ易いのになと思ってしまう。

 部屋は西側に会議室、研修室があり吹き抜け挟んで東側には観音の里資料室と
井上靖記念室が並ぶ。
 井上記念室は閉まっていて、カウンターに申し出開錠してもらう必要があるた
め入らず。観光協会発行の高月町紹介パンフレットに依れば著作物や遺品がある
らしい。またこの図書館建設に際し井上が助言したという記述があるが、どうい
ったものであったかは書いていない。中に入れば判ったかもしれないが。
 観音の里資料室と表示された部屋は名前から見て高月らしく観音信仰や観音像
に関する資料を集めた部屋かと思ったが、単なる閲覧室であった。世界史、日本
史、民俗学など十進分類表で言うと210台、380〜90台といった辺りの本が置かれ
ている。全国の電話帳も並んでいる。
 2人用の机が12卓で24席、割りとゆったり設けられていて学習室風でもある。
入口に自習はしないでと書いてはあるものの、高校生は構わず自習していて、そ
れほどうるさくはないようだ。
 
 再び1Fに降り書架の谷間を漂う。
 一つ気になったのはこの図書館では並んでいる本の間に差し入れる見出し札を
ほとんど用いていないこと。私は本を探す立場から主題の変わり目に入る棚見出
しを重視していて、判り易さ(台紙と文字のカラーコーディネート、文字サイズ
で全然違ってくる)や数(せめて4次に対応しているか)でその図書館の姿勢も
見るが、此処は 291地理の一部にあるだけで表示は棚板に付けられたかなり大ま
かなものだけである。小説類には大方の館で主要な著者名の札を付けてるものだ
がこれも全く見られず、此処まで徹底しているのも珍しい。
 従って主題の変わり目など判り難く、目的の資料を探すのにいささか苦労する
ことになる。
 普通なら利用者のことを考えぬ手抜きの館と罵倒する処だが、此処はどうも単
なる手抜きでもないようで、何か独自性を貫くとでもいったものが感じられる。
まあそれはそうだろう。これほど徹底して見出し用いていないというのも、根性
据わってなければ出来るものではない。手抜きの館は批判怖がってアリバイ作り
的にパラパラと3次対応で入れていたりするものだ。
 それなら何故地理だけヨーロッパとか地域表わした札を挟み入れているのだろ
うという疑問も湧いてくるのだが、この際それは置いておくか。

 まあこういったことを決めているのは館長だろう。高月図書館も県外からの招
聘人事で館長は千葉県成田市からやって来て立ち上げから関わり、もう十数年そ
の職にあると聞く。成人と子供一緒にした配架や見出し用いぬ棚表示などかなり
個性豊かな人ではないかと窺わせる。一度話を聞いてみたいものだ。
 などと思っていたらいつの間にかカウンターにその館長が姿を現していた。全
くの初見で写真でも見たことはないが、女性館員が館長と呼びかけていたから間
違いはない。長いカウンターの端の方に座りノートパソコン広げて何か作業を始
めたが、特に慌ただしくといった風でもなく話し掛けても対応してもらえそうで
ある。夕暮れも迫ってきて私がこの図書館に居られる時間にも限りがある。善は
急げか。
 という訳でカウンターに赴き「少し伺いたいのですが」と声掛けて暫し相手し
てもらった。一見クセのある人かなと思ったが、そういう処は全く見せず、穏や
か且つ淡々と話聞かせてくれた。
 やはり訊いたのは大人も子供も一緒に並べた配架からで、館長の答は概ね次の
ようなものであった。

 「あの配架ですか? あれはですね世界で一番最初にアメリカのボルチモア市
図書館が始めた方式ですね。知ってはいたけど当初採り入れるつもりはなかった
んですが、いざ建設という段になって設計段階よりワンスパン分面積を減らされ
ましてね、考えていただけの資料が並ばなくなり、少しでも棚を効率よく使おう
と始めたんですよ」
 「メリットとしては幅広くなりますよね。成人向けも児童書も本質的な差はな
いと思うので、それだけ対象の資料が増えますからね。たとえば『五箇条の御誓
文』とはどういうものか調べる時、成人向けには該当の資料が少なく子供向けに
頼るというケースもありますね」
 「あとボリュームが出ますね。うちくらいの規模で成人向けだけだと自然科学
の動物、虫の辺りへいくと冊数も数えるほどで寂しくなるのですが、児童書はそ
の辺りも多いので棚に厚みが出ますね」

 と、このようなことを話してくれた。
 そうか、ボルチモア市の図書館が先駆けであったか。爾後大人子供混配の棚を
ボルチモアスタイルと呼ぶことにしよう。
 此処で気になっていた子供向けの本でも棚の上段に置かれているので取れない
のではないか、との疑問ぶつけてみた。思い掛けない質問だったか一瞬間があっ
たものの、館長事も無げに答え返した。
 
 「ああ取ってくれっていう子もたまにはいますがね。でも大抵はそこらの椅子
持ってきて自分で取りますよ」

 なるほどそうか。私の懸念は余計なお世話に過ぎなかったようだ。
 そして館長こう続けた。

 「みんな此処で育ってますからね」
 
 静かな、しかし力強い一言であった。開館15年、地域に根ざした図書館を作り
上げてきたという自信が漲っていた。
 どうやら見出しを用いないというのも、此処に通じるものがあるようだ。此の
図書館の利用者に見出しなど必要あるか――という処だろうか。
 その気概は判るし実際利用者の大半は見出しがなくても困らないのだろう。で
も、町民にも初めてとか何年振りかで来て、何処に何があるかよく判らんという
人もいるだろうからやはり見出しはあった方がいいと思うのだが。
 ただしこれは思っただけで口にはしていない。なんとなく訊かずとも答得られ
たような気がしたので、見出しに関する質問自体しなかった。
 先ほどカウンターの端で仕事始めた館長目にして、事務室もあり貸出要員もい
るのに何故カウンターでやるのだろうかと、ちょっとした疑問感じたのだが、こ
の館長にとり図書室全体を見渡せるカウンターに居るのが自然であり幸せ感じら
れるのかもしれない。
 ふとそんなことを考えた。


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