高岡市立中央図書館
漂着日 2009年3月
高岡は富山県第2の市で人口は約17万人。越中平野の真ん中に盛り上がる呉羽
丘陵境にして呉西、呉東と2つの地域に分けられる県の西側呉西地方の中核で、
政治の富山に対し経済の高岡として、県都富山市と何かにつけ張り合ってきたと
いう。
呉西と呉東では方言も違えば文化も違い、商売の手法も違っているとかで、総
じて呉西は上方風、呉東は江戸風と言われている。
大して離れてもいないのに(富山ー高岡間で約20q)何故こうなったかという
と、江戸時代呉西は加賀藩領、呉東が富山藩領と藩境により隔てられていたから
とされる。富山藩は加賀藩の分家(支藩)だったのだが、藩が違えば文化も違っ
たか、というより全面的な従属を嫌って、西(金沢)を向くより東(江戸)を向
いていたのかもしれない。
維新後呉西呉東が一緒になった富山県が成立しても種々の違いは残り、仲もあ
まり良くないらしい。もっとも富山県民に依れば「(長野県の)長野と松本ほど
じゃないですよ」ということであった。
ただ聞く処では呉西に住む少なからぬ人達は、富山市より金沢市の方に親近感
を持っているともいう。旧藩時代の藩都への憧憬が今も続いているのかとも取れ
るが背景にあるのは県都富山の方が基盤整備でもなんでも先んずることへの不満
であろう。その富山に対する鬱屈が富山を忌避し金沢へと向かわせる、と見てい
るのだが、さあどうだろう。
その高岡を初めて訪ねたのは、正確な日付記すと1986年8月27日だった。この
86年の夏は旅行好き、分けても汽車旅などを愛してきた旅人にとりいささか心重
い夏であった。この夏幾分沈痛な面持ちで列車に揺られていた旅人も少なくなか
ったはずである。
それは何故かというと、この夏が「国鉄最後の夏」だったからで、翌年3月末
を以て、日本列島の大動脈として暮らしに旅行に国民生活支えてきた日本国有鉄
道は民営化され、公社から株式会社へと経営形態の変換が待ち構えていた。
国鉄が国鉄でなくなる、という事態は多くの旅人を困惑させ、この先変わらぬ
汽車旅が出来るのだろうかと不安に駆られたものだ。国鉄改革関連8法案が成立
し民営化に法的根拠が与えられたのは86年11月で、この夏の時点では確定ではな
かったのだが、86年7月の衆参同時選挙で与党自民党が圧勝し、民営化が避けら
れぬことは誰の眼にも明らかだった。
一応民営化後も列車ダイヤの大筋や全国一律の運賃体系は変わらず、ワイド周
遊券、青春18きっぷなどの企画切符もそのまま継続されることなどは伝わってい
たが、収益必至の株式会社に分割されるとあってはこの先どうなるのやら、まあ
この頃これで旅もしやすくなると喜んでいた鉄道ファンはほとんどいなかっただ
ろう。
此処で巨額の累積債務の解消と正常な労使関係の確立、そして政治の関与を排
除して自律的な経営を目指した国鉄分割民営化について語り出すとこのページ終
わらなくなるので、当時鉄道旅行を頻繁にやっていた者として、国鉄民営化をど
う考えていたかだけ書いておくと、私は重要な社会基盤なのだから全国一律の国
鉄という公社形態でいいじゃないかとは思っていた。累積債務さえ切り離せば営
業収支は黒字なのだからやっていけるはずとの認識だった。
もっとも此れは国民国家にとり最善の形を突き詰めたというより不便・不利益
になるかもしれないという不安から現状維持へ傾いただけで、飽く迄も個人的損
得の観点だけである。
ついでに書いておけば国鉄への「愛惜の念」といった感情は更々なかった。国
鉄使って旅していると、その仕事振り、接客態度など腹の立つことも多かったか
ら、まあ無理からぬ処か。
そんな訳で86年の夏は私も浮かぬ顔で青春18きっぷの旅をしていた。この頃夏
は北海道を自転車旅行するのが恒例だったが、この年は自転車は休みにして、レ
ール行脚に切り換えた。民営化は8ヵ月先だが、「最後の夏」にじっとしている
訳にはいかない。
ただ最後だからといって日本一周するほどの時間も予算も取れず、ではそれま
で信州以外あまり行ったことのない本州中央部を攻めてみるかと紀伊、房総、能
登の3半島巡るというテーマを立て、8月中頃より出掛けて行った。
当時住んでいた大阪から先ず南へ行って紀伊半島一周の後東京へ移動して房総
半島を一巡り。更に日本海側へ抜け能登半島目指したが、その中継点となったの
が高岡だった。高岡を選んだ理由は例の如くではあるがユースホステル(YH)
があったからである。
その日高岡に着いたのは未だ夏の陽も高い頃。その時の旅のメモを見ると、前
泊地の長野県穂高町(当時)より大糸線から北陸本線繋いで15時25分高岡駅着とあ
る。そしてこの日は高岡に着いてからYHへ予約入れている。いささかのんびり
構えているが、まあ私の旅は昔から当日予約がほとんどだったし、高岡なら多分
泊まれるか、駄目でも先で何処かあるだろうと踏んでいたのだろう。
首尾よく宿泊OKとなったので、直ぐ歩いて10分弱のYHへ行き、受付済ませ
荷物を置くと素早く駅へ戻り、16時06分発の城端線に乗り込んで終着城端まで行
っている。城端に用があったのではなく、それまで行き止まりの盲腸線とあって
乗ったことのなかった城端線走破だけが目的だった。
城端には11分居ただけで乗っていった汽車で折り返したのだが、途中砺波で降
りて、夕暮れの町を1時間ほど散歩している。トマトを買い弁当を買ったとメモ
にはあるが何処で食べたかの記録はない。
高岡に戻った時はもう昏くなっていたが、それほど遅い時間ではないので少し
街を歩いてみる。静かで落ち着きある佇まい予想していたのだが、街には異様な
光景が展開されていた。異様と書いては申し訳ないのだが、それまでそういう場
面にほとんど遭遇してこなかったこともあり、その時は正直そう感じた。
私が目にしたのは熱心に念仏挙げる人々。至る所でと言っていいほど街の其処
此処に集まり祈り捧げている。総てお堂、集会所といった屋内だが通りからもよ
く見える。なにより街中念仏が響き渡っていた。不思議な感覚に包まれつつその
まま念仏に導かれる様に家並みの中歩いていたのを覚えている。
私が歩いたのは駅からそう離れていない地域で、高岡の中心地と言っていい辺
りだが、其処に此れほど念仏が満ちているとは、さすが浄土真宗の盛んな土地だ
なと思いはしたが、同時に謎めいた宗教都市に迷い込んだような、怪しい思いに
も捉われていた。
いつも高岡はこうなのかと思ったが、これはどうも旧暦の盂蘭盆会の行事とし
て行われていたようで、普段は静かなものという。
このとき高岡は信仰心豊かな人が多く、当然思いやりと慈しみに溢れたまちだ
ろうといったイメージを抱いた。
YHに帰ったのは9時少し前だったか。高岡のYHは瑞龍寺という重厚な構え
のお寺だった。加賀藩主前田家所縁の高岡はもとより富山県きってとも言える大
寺で、80年代のYHハンドブックには「6千坪の境内に重文3棟が建つ七堂伽藍
のYH」と紹介されている(創建時は寺領3万6千坪であったらしいが)。文中
の重文3棟、仏殿、法堂、山門は94年国宝に格上げされたが、富山県の国宝はこ
の3棟のみという。
YHは簡素な旅をすることにより、青少年に人間的に成長していってもらおう
という理念から始められた運動体で、初期にはその趣旨に賛同した寺院が宿坊や
庫裡の1部を宿泊所として提供していたのだが、この由緒ある寺もその一つであ
った。
しかし青少年育成というYH絶対の理念も歳月と共にあやふやなものになり、
役目終えたと判断したか、瑞龍寺も90年代にYHより撤退している。
部屋は庭に面した座敷で、縁側を通っていく。多分学生だったと思うが男の子
が1人着いていて少し話。話の切れ目にふと思い立って縁側に立つと、更に奥へ
と通じているのに気が付いた。灯りも点いていて、誘うが如くに縁側は延びてい
る。風呂やトイレは手前にあるのだが、ではこの先にはなにがあるのだろうと少
なからず興味が湧いた。
立ち入り禁止にもなってないので探検気分で歩を進めると、確か縁側は左か右
かに折れ曲がり、角を越えると其処にはまた座敷があった。
夏のことで当時は冷房など入ってないから障子も開け放たれている。目に飛び
込んできた座敷には女の子が1人座っていた。女の子と言っても二十歳くらいか、
れっきとした大人の女性である。膝を崩して所在無げではあるが、しどけなくと
いった感じにも見えた。
要は女性の寝室だった訳で、此れには驚かされた。というのも当時のYHは利
用者(ホステラーという)が守るべき規則も厳しかったが、YH側にも厳格な設
置基準が課されていて、施設として男女のエリアは明確に区分けされ、通常スン
ナリとは異性側に行けないものだったから。
瑞龍寺は元からある建物を利用しているので、その辺り特例的に認められてい
たのだろうか。あるいはホステラーも少ないので、柔軟な部屋割りにしたのかも
しれない。
此処で女性が驚いて悲鳴でも上げれば、いささか面倒なことになったかもしれ
ない。なにせあの頃は男が女子エリアに立ち入るなど言語道断の行為で、寺の人
が駆けつければ、軽くてお小言、対応いかんでこじれれば夜の巷へ追放というの
も有り得た。標示もなかったからと主張は出来るが、何れにせよいい思い出には
ならないだろう。
幸い女性は落ち着いていてと言うか、そう機敏な反応が出来るタイプではなか
ったようで、不意に現れた私を不思議そうに見ただけだった。
まず驚かせたことを詫び、縁側に立ったままで少し会話。向こうもいい退屈し
のぎが出来てよかったといった感じだった。大阪の女子大生で、今朝まで白馬の
民宿でアルバイトしてきて、この後何ヶ所か寄りながら帰っていくのだが、明日
は輪島へ向かうことなど話してくれた。
翌日は朝の列車で津幡へ行き、其処から七尾線で能登半島へと入っていく。七
尾で乗り換えの時、昨夜の女の子が姿見せた。同じ列車だったが、車両違ったか
気が付かなかった。朝も顔を合わせることなかったので昨夜以来である。自然に
話始まり、そのまま同じ車両に乗り込んで暫しの道連れとなる。これは当時のホ
ステラーにとってごく当たり前のことで、たとえ1泊でも同宿すれば不思議な一
体感があり、YHで顔合わせていて、同じ方向へ行くのに別々など却って不自然
だった。もちろん総ての場合がそうだと言うのではないけれど。
この時輪島へ行く彼女と、能登半島の先端に近い終点の蛸島まで能登線に乗っ
てみる私の分岐となる穴水まで1時間弱向かい合い話しながら行った。楽しい時
間には違いなかったが、話自体はそれほど噛み合わず、名前を訊くこともなく別
れてきた。これが話も弾んで、波長も合うとなると連絡先交換して「また会いま
しょう」となる。70年代〜80年代YH使って旅していると次から次と異性同性を
問わぬ出会いが訪れたものだ。其処から交際が始まり結婚へと繋がった例も無数
にあり、その中には北海道と九州や東北と四国など通常なら知り合うことも難し
い遠く離れた地方の出身者同士も少なからずで、思えばYHが日本の通婚圏の広
がりに果たした役割小さくはない。残念ながら私には縁のない話ではあったが。
さて国鉄民営化から筆が伸び80年代の旅の一端披瀝する処となったのだが、こ
こらで2009年の高岡へ場面転換しよう。
今回も起点は高岡駅で、着いたのは前日宿泊地魚津から北陸本線を富山で乗り
継いで昼少し前だった。夕方明るい内には次の予定地隣県石川の小松市へ入り、
小松市立図書館も訪ねるつもりなので、あまりノンビリも出来ないのだが、図書
館へ直行も味気ないので少し街を歩くことにする。
駅を背にして歩き出したが駅前の通りを越えるには地下を潜る。駅前には地上
に横断歩道が設けられてないので街へ出ようとすればこれは必須である。古い地
下道でエレベーターもなく階段を下りまた登ることになる。
以前からこういう地下道や歩道橋には地上を歩く権利を奪われているようで不
条理感じていたのだが、最近は一層その思い強い。私自身は階段の登り降りも全
く苦にならない人間なので気分だけの問題だが、足腰衰えたお年寄などは大変で
はないか。
少し前だが、長野県下の国道18号線を潜る地下道で、手摺にしがみ付くように
して1段また1段とやっとの思いで階段を登っていくお婆さんを見かけ、さなが
ら老人虐待の場面に立ち会ったかのようで胸に痛み覚えたことがあった。
「人は何故地上を歩けないのか」と不条理感強まったのはそれがきっかけなの
だが、もうこういう分離システム見直すべきではないか。
その18号線地下道は1968年の設置となっていた。高岡駅前の地下道も60年代〜
70年代に造られたと思う。あの頃は多発する交通事故・渋滞対策としてとにか
く人と車を分離するという考え方で、地下道、歩道橋がやたらと造られた。当時
も高齢者や躰の不自由な人など弱者は大変だという声はあったが、事故を防ぐと
いう大義名分の前にはかき消されてしまっていた。何より高度成長期で元気盛り
の当時の日本では弱者の存在も目立つものではなかったということもある。
翻って数十年の時が流れた現在だが、人口構成・社会状況も大きく変わり、高
齢者見る割り合いは驚くほど高まっている。なんといっても超高齢化社会日本な
のだから、それも当然だろう。
そして昔なら大家族で暮らし、買い物は元気な若い者が行ってくれたものが今
は核家族化により足元の覚束ない高齢者であっても自ら行かねばならぬ事態も増
えている。私が長野で見たお婆さんもスーパーの袋を持っていて買い物帰りのよ
うであった。あるいはその日の命を繋ぐ買出しかもしれない。であればお婆さん
にとりあの地下道の階段は、生きて行く前に立ちはだかる悪鬼のごとき存在と言
えるだろう。
道路事情だって変わってきている。18号線の場合なら平行して昔はなかった高
速道路もバイパス的県道も開通しているし、人口減少もあって交通量は格段に減
っているはずだ。高岡駅前も中心部の空洞化やこれも人口減少で同様だろう。実
際高岡駅前に立ってみれば、昼近くでも疎らと言っていい交通量だった。
もう人が地上横断しても大して不都合もなく、そうすべきではないか。もちろ
ん平面交差となれば事故の怖れはある。ただそれを言うのなら、足元の覚束ない
お年寄りが階段から転げ落ちる危険だってある訳で、どちらがどうとも言えない
だろう。互角のリスクに晒されるなら利便性が高い方がいいではないか。
少なくとも足腰弱った高齢者に選択してもらえば、皆地上を横断する方を選ぶ
はずだ。早く自治会などが音頭取り市役所なり道路事務所なりへ話もってかない
ものか。道路に横断歩道引いて、歩行者用信号付けるだけだから簡単なことだと
思うのだが。
とこのようなことを考えながら高岡の街を歩く内、山町筋(やまちょうすじ)
へと来た。駅から10分足らずの土蔵造りの建物が並ぶ趣ある通りで、私はこうい
う所をブラブラするのが好きなので今回も訪ねてみた。此処が昔の北陸道で、高
岡の中心だった。重要伝統的建造物保存地区にも指定されている。
ついでながら山町というのは1つの町のことではなく、俗に山町筋10カ町と呼
ばれる10の町内の総称で、その内4町に伝統的建造物はまとまっている。山とは
祭りの時に出る山車のことで、此処では高岡御車山と呼び、江戸時代より受け継
がれているが、御車山を出せるのは山町筋の町だけである。山車を出す町なので
山町なのだが、それは又山車を出せるほどの歴史と格式と経済力があり高岡を支
えてきたということを表してもいる。
山町筋を歩いて行って適当な所で折り返し、再び駅から伸びてきているバス通
りまで戻ってきた。此処が木船町交差点で、通りの向こうには旧富山銀行だとい
う赤煉瓦の洋風建築もある。
通り越えるべく信号待ちしていたが、その時対岸の電柱に掲げられた交通標語
が目に留まった。『止まるはず 老いの甘えが 招く事故』とある。なんともス
トレートで刺激的、且つ身もふたもない17文字ではないか。
信号渡って傍へ行き改めて眺めたが、富山県警本部と富山県交通安全協会が連
名で出しているれっきとした公的なものであった。官がこんなの出すのかと首傾
げざる得ない。
そりゃ人目引かねば標語の意味はないのだから多少は過激にもなるだろうが、
それでも高齢者ターゲットにして啓蒙ではなく攻撃するかの内容は異常だろう。
これだけヒステリックにしなければいけない背景でもあるのだろうか。問題行動
起こすのは何も高齢者だけとは限らないだろうに『老いの甘え』などと一刀両断
に斬って捨てて高齢者見下しているかのこの標語の作者など私から見れば血も涙
もない奴だとしか思えない。私なら『止まるはず 思い込むのが 事故の元』と
か、その程度に止めておくけどなあ。まあそれが正常な人間の感覚だろう。
それと出しているのは富山県警にしても、観光客も多い山町筋にこんな標語が
あることに対し高岡市も高岡市民も何も感じないのだろうか。全国に向け老人に
冷たい町だと宣伝してるようなものなのだが、何の問題にもなってないというこ
とは市を挙げてこの標語の見解推進しているということか。
私が嘗て抱いたイメージと異なり、高岡は高齢者が生きるには辛い街なのだろ
うか。
高岡市立中央図書館は北陸本線高岡駅前の「ウイングウイング高岡」と称する
再開発ビルにある。元は高岡城跡公園にあったが、04年ウイングウイング高岡竣
工と共に移ってきたそうだ。
このビルは公共施設棟とホテルや一般企業入居の民間施設棟の2棟あるが(そ
れでウイングウイングか)図書館はもちろん公共棟の方で、12階建ビルの2、3
階を占めている。他には高岡市生涯学習センター、高岡市男女平等推進センター、
富山県民カレッジ高岡地区センターなどが入っているのだが、7階〜12階には高
校もある。富山県立志貴野高校という夜間部もある単位制の高校で、元は工業系
だったらしいが、時代の要請に合わせ、情報ビジネス科、国際教養科といった今
風の学科並べるなど、変身してきている。駅前のこのビルに越してきたのもその
一環か。
ユニークなのは県民カレッジとコラボし、特別講座として社会人に一部授業を
開放(聴講)していることで、世代を超えて同じ教室で学び、終了すると科目履
修証明書も出るという。
これまで複合施設に入った図書館も多く見てきたが、さすがに高校と一緒とい
うのは初めてだ。複合施設の図書館で感心した例はほとんどないのだが、さあ此
処はどうだろうか。
さて漸くにして高岡市立中央図書館に到着。ウイングウイング高岡2Fにメイ
ンの入口があり、入館すれば一望広い図書室が広がっている。全体としてゆとり
あるレイアウトが為されていると見た。
それはいいのだが、入口近くの新聞雑誌コーナーの座席が背もたれなしなので
利用者が皆背を丸めて資料閲覧してる光景が目に入り、顔を顰めることとなる。
今の時代資料さえあてがっておけばいいというものでもなし、背もたれ付きの椅
子にゆったり座ってもらって、くつろいで新聞なり雑誌なりを楽しんでもらおう
という発想はないのだろうか。まあないからこんな長居するなとばかりの椅子し
か用意してないのだろう。
高岡も地方都市の例に漏れず高齢者の利用が多い。若けりゃスツールでもベン
チでも耐えられるが、お年寄りには苦痛だろう。
何かこういう座席の有り様見てると、やはり高岡高齢者に冷たい町なのか、と
思ってしまう。
2Fが一般と児童の開架図書室、3Fにレファレンスコーナーがあるという構
成になっている。2Fは広く一般で約50m×23〜4m、児童が約25m×15mくら
いあるか。ただ角の部分は階段状に少し欠けてはいる。
出来てまだ数年なので館内は綺麗。フロア中央部の書架は1.8m高5段、1.4m
高3〜4段、1.2m高 3段など何種類かあるが、ゆとりある配置で、総体に見晴
らしはいい。
2F巡っていて目に付いたのが背もたれのない椅子の多さで、机の席であって
もスツールで済ませたりしている。目でパパッと数えると背もたれ付き約50、背
もたれのない椅子が約80と出た。こんなに背もたれのない椅子の比率が高い図書
館も珍しい。ケチ臭いのか、利用者への思いやりがないのか。まあ後者と見て間
違いないだろう。
と、2Fの一番奥まった辺り、歴史の棚の前だが本を床に置く女を発見。もち
ろん図書館の所蔵資料をである。床はカーペット敷きで一見綺麗だが所詮土足で
歩く地べたであり本を置ける神経が判らん。私など畳の上でも本をそのまま置い
たりはしないが。
何処の図書館ということなく本を足元に置いて平気な輩も時に見掛けるが、ど
うもこの女此処の館員のようだ。図書館の命たる本を平気で地べたに置く図書館
員がいるとは驚天動地ものである。
後で判ったのだが、この館員は3Fレファレンスコーナーの担当者で、利用者
の求めに応じ資料を集めて回っていた模様。何冊か抱えて歴史の棚へ移り、新た
な資料抜き出そうとしたが手が塞がっていたので持ってた本を足元へ、という状
況であったようだ。
歴史の棚は壁面で高く、目の前に本を預けるスペースは無かったようだが数メ
ートルも動けば低い書架の上でも机の上でも置けるのになんでその程度のことが
出来ないのか。もちろん近くに一時置く場所がないからといって床に置いていい
ものでもない。どのくらいの分量になるか見計らって、カゴくらい用意してこい
よ。
これまで見てきた例で言うと、こういうおかしな行動をする館員が1人でもい
る処はまず碌な図書館ではない。個人の問題ではなく組織として駄目ということ
だ。まともな組織ならそれは不味いと注意なり指導が入るはずだが、おかしな行
動がまかり通っているというのは、全体として意識、能力が低いか、馴れ合いに
陥っていると見て間違いなく、そんなところがいい図書館である訳がない。
そしてリンゴ箱に腐ったリンゴを入れると他のリンゴも腐ってゆくという譬え
の通り組織自体がおかしくなっていく。なぜならおかしな行動は概して楽だから
やる訳で、其れを正せないとなると逆に蔓延していくのだ。
此れは図書館に限らずどの組織でも同じだろう。
さて分類だが 188仏教各宗・210日本史・289伝記・291日本地理・910台日本文
学が4次で後は3次止まりというあまり感心しない状態にある。367家族問題・
369社会福祉・493内科学・783球技など数百冊規模で並んでいるジャンルも3次で
しかない。主に著者名(伝記は被伝者名)から採ったカナ2文字の図書記号が添
えられている。
何度も書いてることだが、球技で野球もバスケもサッカーもごちゃ混ぜで並べ
て平気な神経が判らん。
壁面にコンピューター関連集めた棚があり、此れが1000冊強並んでいて中々壮
観ではある。ただ 007情報科学・547通信工学・548情報工学を一堂にしてはいる
が、その先の分類は無く、007などざっと700冊がごちゃ混ぜ状態で、目的の本を
探すには相当な苦行強いられる。一応図書記号で50音順にはなっているが、著者
名から採った図書記号では検索しなければ用をなさない。Windows・Acces・ホー
ムページ・Excelなどもう1段用途で分類しようとは思わないのだろうか。
また007に『ホームページ入門』があり547に『ホームページ超入門』がありと
本が入った時の担当者の気分次第とでもいったいい加減な配架も見られる。
まあその辺りが意識、能力の低さ表わしているのだろうが。
それとWordは此処にはなく、遠く離れた 582事務機器の棚に24、5冊が置かれ
ているのだがこれもなんとかしないものか。Wordというのは不遇なアイテムで、
此処がそうであるようにコンピューター関連集めた棚があっても其の中には入れ
てもらえず、離れた事務機器の棚に置かれることが間々ある。ワープロが事務機
器に入れられたことからワープロソフトのWordもその扱いになったのだが、今時
Wordが事務機器と思う人間がどれほどいるのか。利用者惑わすだけではないか。
さっさと 007に記号変えてコンピューターの棚に並べればよさそうなのだが、感
度の鈍い図書館にはそれが出来ないのだろうな。
490台医学では 491が基礎医学、492が臨床医学となっていて、此れは間違いで
はないけど果たしてこれで医療関係者でもない一般利用者に何が判るだろうか。
491はともかく492には診断・治療と入れておくべきだろう。そもそも十進分類表
も「492臨床医学 診断・治療」となっている。なにも分類表通りの見出しにしろ
と言うのではなくアレンジも大いに結構だが、それは飽く迄も利用者に資するも
のでなければならない。此処は安直に言葉削ってテーマ判りづらくしているのだ
から問題だと思うのだが、この図書館の関係者にはそういう意識はまずないだろ
うな。
多分私が「診断・治療と書いてる方が、どういう本が並んでるかがすぐ判って
利用者にはいいと思いませんか」と提案してもキョトンとされるのがおちか。
棚見出しの札も少なく政治、経済といった大まかな表記のみ。棚上部にも表示
はあるがこれも大まかな上社会科学が5枚、教育も5枚となんの工夫もなく同じ
札を連ねている。
これを見る内、同様に芸も工夫も無く同じ表示連ねていた福井市桜木図書館が
記憶の中から浮かんできた。同じ北陸だからという訳ではないだろうが、よく似
てるもんだ。
分類の程度、見出しの少なさ、同じ表示連ねる処などがそうだが、一番感じる
のはやはり運営姿勢。利用者を見ず、自分たちの都合優先でなんとなく図書館や
ってます、といった辺りによく出ている。
館内まわるうち喉の渇き覚えてきた。水分補給を図りたいのだが、どうも給水
器の類が見当たらない。館員に訊けばやはり無いとのこと。水くらい飲ませろよ、
給水器など大抵の図書館にあるだろうが。
高岡は水資源豊かな所で、水道も総て湧き水使っていると聞いたことがあり、
さぞ美味いだろうと思うのだが、まあ水が飲みたきゃ自分で用意してこいという
ことか。この突き放し感が高岡風か、などと徐々に高岡の新たなイメージ固まっ
てきている。
3Fはレファレンスコーナーで参考図書と郷土資料が並んでいる。2Fに比べ
れば1〜2割程度の広さだが、落ち着いて調べ物も出来る1人用の指定閲覧席が
20と4人掛けの机席などもあり、40席ほどは用意されている。此方は総て背もた
れ付きの椅子だった。
カウンターには館員が2名いてレファレンスにも対応している。ただ能力のほ
どは…何とも言えない。
同じフロアーには72席の学習室もあるが、こちらは図書館ではなく生涯学習セ
ンターの所管で、壁1枚で接しているものの、行くには一旦図書館から出る(同
じフロアー内の移動で建物を出る訳ではない)形になる。
まあ利用者にしたらどちらの所属でも構わないようなもんだが、学習室を図書
館から切り離したのは何か意図する処あるのだろうか。図書館人脈の中には図書
館は自習する所ではないという強固な考え持つ系統もあるようだが、此処もそう
で、図書館には学習室は置かない、しかし自習の場を求める高校生などのことを
考え生涯学習センター扱いで設けた、ということなのか。訊かなかったし、経緯
は不明。
再び2Fへ降りて見回るうち移動の時間となった。夕方からは嘗て前川恒雄さ
んも勤めたという小松市立図書館――建物は違っているだろうが――を訪ねる予
定を組んでいるのでそろそろ行かなければならない。
ウイングウイング高岡を出ればもう駅は通りの向こうに見えている。そして目
の前には横断歩道。ややこっちは地上も渡れるのか。着いたとき通った地下道と
は駅前広場挟んで逆サイドなので先程は気が付かなかったが、ウイングウイング
高岡前には歩行者用の信号が設けられていた。
なんだこっちにあるのなら向こうだって地下道に義理立てしないで地上渡せば
いいじゃないかと思いはするが、まあ片側だけでも地上横断出来るようになって
いるのは足腰弱ったお年寄り思えば喜ばしいことだ。少しホッとするものあり。
今回慨嘆ばかりの高岡だったが、最後の最後で僅かに救い得られた。これだけ
かと思わないでもないけれど、何もないまま立ち去ること思えば、まあ良かった
ということになるのだろうな。
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