小千谷市立図書館
漂着日 2008年3月
「山古志村がなくなる」
その話を聞いたのは2004年の夏、小千谷市郊外にある小千谷ふるさとの丘ユース
ホステル(YH)、夜の歓談の場であった。
なくなるといっても土地、建物から村民までそっくり消えてしまうのではなく、
翌年春に市町村合併で長岡市に吸収され、その1部になるということなのだが、山
古志という村がなくなることには違いなく、それは厭だなと思ったものだ。
私がそれまで通り過ぎるだけだった上越線小千谷駅に初めて降りたのはその2年
前、02年の秋のことだった。この年この地に新しいYHが出来、其処が中々いいと
いう評判聞き泊まりにやってきた。
他のページでも書いたが、私は70年代からYH使い日本各地を旅してきた。昔の
YHは泊まり合わせた同士が厭でも触れあうように出来ていたから、そこに出会い
があり交流があり、更には時としてドラマチックな展開もありと、旅する若者魅了
する材料には事欠かなかった。そのためYHの楽しさにはまり込んで脱け出せず、
堅気の暮らしが身に付かぬまま歳を重ねて行く者も少なからずいたのだが、まあ社
会問題化するほどでもなかった。
私は其処までは行ってないが、YHの妙味は満喫させてもらった。そのため今も
YHに泊まるのを好み、新しい施設がオープンしたとの情報が入れば古いタイプの
ホステラー(YHを使って旅をする人々をこう呼ぶ)の血が騒ぎ、行きたくなるの
だ。
そして訪れた小千谷のYHは期待に違わず、ホステラーへの愛情が感じられる居
心地のいい宿で、以後時折り遊びに行くようになった。
小千谷に行けば当然地域の観光情報に触れる機会も多いのだが、元々観光名所等
には興味の薄い人間なので何かを見物に行くということもなく(錦鯉くらいは見た
が)街を散歩して図書館にちょっと立ち寄る位である。
ただ小千谷の隣にある山古志村には心惹かれるものがあった。名前は聞いていた
が、どういう処かは皆目不案内で小千谷へ来て初めて知った。
棚田が点在する風光明媚な丘陵地の村で、「日本の原風景」と讃えられることも
ある。神事として「牛の角突き」と呼ばれる闘牛が行われている。住民が16年かけ
手掘りで貫通させた長さ 922mの中山トンネルがあるなどといった情報を得たが、
1日歩き回るには格好の処で是非行こうと思ったものだ。
しかし思っても直ぐ実行に移せないのは私の悪い癖で、その内になどとノンビリ
構えていたら冒頭の場面迎えてしまった。
合併しても風景が変わる訳でもないし、訪問者に対し住民が冷たくなる訳でもな
いだろうが、訪れた山古志がもう村ではなくなっているというのは旅情削がれる様
でどうも面白くない。都会に住む旅行者の勝手な思い入れとは承知しているが、村
という響きには惹き寄せられるものがあり、そうでなくなると判った途端、磁力の
パワーが落ちて行くのを感じた。
その時は予定もあって翌日には小千谷離れたのだが、北陸から出身地である関西
巡って東京へ帰った後、この件について考えてみた。長岡市になった山古志村探勝
にはもう一つ気が乗らない。しかし1度は行ってこの目で見ておきたい処である。
ではどうする。
結論はあっさりと出た。「山古志村」の内に行ってしまおう、と。
どうもそれが私の我が儘を満たす唯一の道であるようだ。
となるといつ行くかだが、合併期日は2005年4月1日ときいたので当然その前に
なる。しかも彼の地は日本有数の豪雪地帯なので冬場は自由に歩き回るのは難しい
と推測され、行くなら雪の来る前、11月までということになるか。
この年の秋は私には珍しく何かと忙しかった。9月から10月にかけても生活に追
われてという感じで慌ただしく過ごし、山古志村へ出掛ける時間が取れない。11月
からは新規の仕事が始まることになっていて、以後はまず無理。行けるとすれば10
月後半の時期だけである。
そして、この日しかないなと決めたのが10月23日だった。
23日土曜日に出発してその夜は小千谷ふるさとの丘YHで旅の宿満喫し、翌24日
日曜日に山古志村を訪れる予定で、その時1泊で計画したか2泊だったかはもう忘
れてしまったが、1泊の場合は24日夕方に小千谷まで下りてきて、上越線で東京へ
帰るというスケジュールだったはずだ。
計画固まった時は「これで負債解消」と胸の痞え取れたかの安堵感があった。
その2004年10月23日に何が起きたかはことさら書く必要もないと思うが、小千谷
市、山古志村のある新潟県中越地方は激震に見舞われた。文字通りの大地震が、週
末の暮れ方、人々が憩いの時を迎えるのを待っていたかのように襲ったのだ。
その衝撃は震源地の川口町で震度7、小千谷市、小国町6強、十日町市、長岡市
などが6弱とこれまで日本で起きた大震災と同等の激しいものであった。山古志村
は役場に置かれた震度計が激しい揺れで壊れたため記録は残っていないが、6強と
推測されている。
新潟県中越地震、別名中越大震災と呼ばれるこの災厄により、死者46人、負傷者
4805人、家屋全壊2827棟、半壊 12746棟といった被害がもたらされ約10万3千人の
住民が避難を余儀なくされた。道路、河川、田畑の損壊も多発した。
山古志村の被害は甚大なものだった。元々地盤の弱い中山間地で、地滑り多発地
帯だっただけに家屋倒壊、棚田、畑の崩落は至る処で起きた。この時半壊以上の家
屋の割合、実に84%にのぼった。翌朝明るくなってから周囲の変わりよう目にした
村民の「あるべき山がなく、あるべき家がない」という嘆きが、惨状表わす言葉と
して伝わっている。
更に道路の崩落も随所で起き、小千谷方面も長岡方面も小出方面も全ての道が通
行不能となり、住民は孤立した。
ここで出された結論が山古志村全住民2200人の長岡市への避難、即ち全村避難で
ある。翌24日に村長名で全村避難が発令され、25日自衛隊のヘリコプターでほぼ全
住民が村を後にした。牛や錦鯉の世話などを理由に、自らの意志で5世帯6人が残
留を選んだと当時の記録にはある。
こうして地形も景観も一変し、村民の姿もなくなり、山古志という村は実質的に
地上からかき消えてしまった。
「山古志村がなくなる」と驚かされたYHの夜から2ヶ月後のことである。
この時私はどうしていたかだが、実を言うと小千谷には行ってなかった。23日が
近づくにつれ、なぜか気が重くなり、直前まで迷ったのだが結局「まあ山古志村そ
のものが無くなる訳じゃないし」と先送りを選んだ。「村」に拘っていて、そのラ
ストチャンスだったのだから、気合入れて出発してもよさそうなものだが、重く纏
わりつく何かを振り払うことは出来なかった。
震災の報には東京で接したわけだが、TVに写し出される現地の惨状目にすれば
自分も其処にいたかもしれないだけに、なんとも複雑な思いがあった。
今でもあの時行ってたならどうなったんだろう、などと思うこともあるのだが
(YHでは人的被害はなかったものの建物は半壊。長期休館余儀なくされたが1年
半後に復活している)考えても意味のないことだと自ら直ぐに打ち消し、答得るこ
とはない。
小千谷の市街地は信濃川挟み東西に広がっている。上越線小千谷駅は東側にある
のだが、賑やかなのは西側で元々小千谷の中心地域であり、商業施設や行政機関な
どが固まっている。図書館もこっちにある。
序に書けば初代の小千谷駅も此方側にあった。ただし上越線の駅ではない。その
昔信濃川西岸に信越本線来迎寺駅と小千谷市街を結ぶ魚沼線という超ローカル線が
走っていて、その終着駅が最初の頃小千谷を名乗っていたのだ。
鉄道関連資料に依れば1911年私鉄の魚沼鉄道として開通し、22年国鉄(戦前だか
ら鉄道省か)に移管。此の間20年に信越本線宮内駅から信濃川東岸を上越北線が南
下してきて小千谷東駅開業。そして31年の上越線の全面開通を受けて32年魚沼線小
千谷駅を西小千谷、上越線東小千谷駅を小千谷とする名称変更が行われたとある。
魚沼線の廃止は1984年4月。保存してあった84年2月号の時刻表を開いてみたら
来迎寺ー西小千谷12.6kmで間に片貝、高梨、小粟田の駅がある。運行本数はもち
ろん少なく、来迎寺ー片貝間ひと駅だけの折り返しも含め平日と日曜が来迎寺発5
本(西小千谷発4本)、土曜日だけ昼頃に1本あって6本(5本)である。土曜以
外は朝7時台の列車が行けば次は17時台と、廃線も已む無しかなと思わせるダイヤ
が載せられている。
中越地震から3年半、小千谷の街も相当な被害を受けた筈だが、行きずりの旅行
者の目からは震災の痕跡を感じさせないほどに復旧されている。人通りもあり、中
心部の停留所では10人以上がバスを待っているなど結構賑わっている。
山古志村も復興事業が進み、07年末でほぼ希望者全員が帰村果たしたという。た
だ世帯数で見ると地震発生時の7割とかで、他所での生活選んだ人とか健康上の理
由他で帰れなかった人もいて、村民こぞっての帰村とはならなかった。
また帰った先も変容激しく「道も家も分からぬ所になってしまった」という状況
らしいが「新しい村(予定通り合併してもう長岡市なのだが)を作るつもりで頑張
って」と励ますしかない。
商店街が尽きる辺りを左折して直ぐ右折、駅前から真っ直ぐ伸びてきているメイ
ンストリートの1本裏通りを少し行き、市民会館を回り込めば小千谷市立図書館は
ある。市街地だが静かな一画で、駅からだと20分以上は歩くことになる。
斜め向かいに位置する小千谷小学校は意外なことだが日本最古の公立小学校だと
いう。戊辰戦争さなかの1868年開校とかで明治新政府の誕生と足並みを揃えてとい
うことになるか。
ただ意外な事実に私も興味持って少し調べてみたところ、小千谷小学校の原型と
なる「振徳館」は国学者でもあった小千谷の縮商人山本比呂伎が北越戦争で長岡か
ら焼け出されてきた長岡藩士の遺児などのために私財を供して構えたもので、今日
の概念からは私学(私塾)ではないかと思わせるものがある。
これは当時新政府から‘賊軍である長岡藩士の子弟の面倒を見てはならぬ’とい
う布告が出ていて、それを無視して勝手に長岡藩士子弟のための学校を作るわけに
もいかず、新政府(当時の柏崎県)に認可を願い出て許されたという経緯があり、
公(おおやけ)が認めた学校だから公立という見立てらしいが、ちょっと微妙では
あるな。
もっとも明治初期の学校など官立(公立)名乗っても、実態は地方の有力者に資
金出させてということも多かったはずだから、あちらも公立なら此方も公立と言っ
て不思議はないか。
いずれにせよ小千谷小学校最古説に異を唱えるつもりはない。
図書館は3階まである白っぽい建物で、外観は余計な装飾もなくスッキリしてい
る。出来たのが1978年と言うから、もう30年物か。先の震災にもよく耐えたなあと
讃えたくなってきた。
入れば先ず目に入るのが左手壁際に設けられた震災資料コーナーで、200〜300冊
の関連図書が置かれている。小千谷図書館では震災を永く伝えようと関連資料の収
集に力を入れていて、出ている図書以外にも当時のパンフレット類、報道の録画・
録音テープ、雑誌記事など多数所蔵しているようである。
入口から真っ直ぐ進めば新聞雑誌コーナー。壁面の面見せで並べた雑誌の棚を見
たが、 105枠がほぼ埋まり、置かれているのも全て有料誌で、公益法人などから出
ている訳のわからない寄贈誌で空きを隠さなくても済んでいる。これを見る限りこ
の図書館には相応の予算が付き、取りあえずは図書館としてちゃんと機能してるん
だろうなと推測出来る。
右手へ行けばカウンターがあるが、此処のカウンターは壁際などではなくフロア
ほぼ中央にあって全方位対応型とも言える。その後背地に文芸関係の書架が並び、
一番奥まった所が児童エリアというのが1Fの構成。
広さは正味図書室で奥行き約30m幅約20mほどあるか。ただ入口から見て左手奥
が階段状に欠けているので面積としては 500u位かな。
座席は4人掛けの机が2卓に窓を背にした壁沿いの席など1Fには23席。ほとん
ど新聞雑誌コーナーにあり、そう決められてる訳ではないが机も専ら新聞閲覧用と
いった趣である。
階段で2Fに上がると踊り場に、3Fには西脇順三郎記念室があるとの案内が掲
げられている。西脇順三郎か。詩人にして英文学者。遠い昔の高校時代、現代国語
の教科書に載っていたな。ただ記憶にあるのは名前だけで、作品は詩だったか詩論
だったかも含め深い霧のかなたである。
その後も名前は稀に目にすることもあるが、作品に触れたことはなかった。
小千谷出身で名誉市民でもあるらしい。
いささか興味湧いて覗いてみようかと思ったが、事務室に申し出て鍵を開けても
らわなければいけないようで、それも面倒と断念。後で詩集でも開いてみよう。
さて2Fには文芸以外の一般成人向け資料が配架されている。構造的には1Fと
同じだが片側(通りと逆の言わば裏側)に事務室や準備室(何をする部屋かは判ら
ない)書庫(狭そうだ)などが配置されていて、その分図書室は一回り小さくスリ
ムになっている。
通りに面した一画が閲覧席のスペースで、4席の机が12あり48席。他に自習室と
かは無いようで、此処を社会人、高校生の別なく利用している。この区画は3方が
床から天井近くまであるガラス壁になっていて、机上にも充分な明かりが射し込ん
でいる。
それにしても、これだけの図書館を30年前に構えるとは大したものではないかと
思う。もちろんそう大きくはないし、設備も今日の目から見れば古めかしい。ただ
小千谷市の人口は今はもう4万人を切っているが、多い時でも4万5千人ほどだっ
た。当然市の財政規模もそれなりのものでしか無かったと思うのだが、それでいて
床面積にして4〜 500坪(これはトイレや階段なども含んでいる)はあろうという
図書館を、無いところも珍しくなかった70年代から開いているのだから感心する。
文化に理解があるというか、賢い土地柄なのだろう。
そこでまた少し調べてみたのだが、かつての小千谷は織物の集散地として豊かな
財力を誇り、京、江戸との交流も盛んで学者、文人も繁く訪れていた。自然学問へ
の意欲高く、詩歌たしなむ者少なからずと、言わば知的レベルの高い町であったと
いう。
やっぱりそうか。その土壌が遥か後の図書館へと繋がっているのだろうな、と此
処までは施設面の話である。
棚を見よう。並んでいる個別の資料の良し悪しは言えないから、分類主体の大ま
かな感想になるのだが、も一つぱっとしないな。ただなんとなく図書館やってます
という感じ。凡庸という言葉浮かんできた。
ほとんどの分野が3次分類までで4次まで踏み込んでるのは 210日本史 289伝
記 783球技くらい。もうこの規模の図書館なら4次分類主体だろう。
291日本地理は地域別にはなっているが、なんとも大雑把で日本全国4分割と新潟
という分け方。例えば中部と近畿が一緒にされているのだが、他の図書館ではやっ
ているように、これを分けたとしてどれほどの手間が掛かるというのだろう。
そして 289伝記だが「289.1 サ」といったラベルでカナ1文字の図書記号50音順
に並んでいる。カナは当然被伝者名から採られるべきで、そうでないなら分類の意
味がない。織田信長本が「オ」の処に固まっているから渉猟し易いので、これが著
者名などから採られて数百冊ある 289のあちこちに散らばっていたのでは手間も時
間も掛かってしまうし、見落としも出てくる。
此処も概ね被伝者名から採られているが、何故か少数だが著者名からというのも
見られる。坂本龍馬がイにあったり吉田松陰がやはりイだったりしている。
私にはこれが判らない。伝記は被伝者名で並べるというのは当たり前で(稀に著
者名などで並べている館もあるが、それは利用者不在の極めてレベルの低い館)、
此処も大体がそうなっているのに、なんでわざわざ違う方式を紛れ込ませるのか。
装備作業を此処でしているのか、外注なのかはしらないが、通常被伝者から記号
を採っているのに突如著者名から採った本が入ってきたらおかしいと思うはずだが
平気で並べている神経が判らない。
坂本龍馬を扱った本の多くはサにあるのに、イに置くのは利用者が見落とすこと
もあり、問題だとする意識はないのだろうか。
493医学の内科は約 500冊が並べられているが、493+カナ1文字で一括りにされ
ている。雑と言うか、手抜きというか、利用者不在も同然ではないか。
今はもう医療のような利用者の関心の高い分野は4次に即し、症例別に分けて並
べるのが当たり前で、その方が求める資料も探し易いのは判っているはずだが、そ
うする気はないらしい。
利用者のため一歩踏み込んで高度なサービスを提供しようという熱意ではなく、
前例踏襲で昨日と同じことをしてればいいやとでもいった停滞感が棚には漂ってい
る。
あと目に付いたのは美術全集などの大型本が、この規模の図書館としては多いこ
と。世界美術大全集28巻別卷1、日本美術全集25巻などは普通だが、その他にも各
種あり、函入りの豪華本も少なくない。 Le Louvre(パリとルーブル美術館)は
1冊 34000円(全8巻)、西域美術(3巻・大型本の中でも大型)58000円。近代日
本相撲史(2巻)50000円というのもある。読まれることあるのだろうか。
滅多に読まれることがない本でも、置いてあるのが図書館の値打ち――という考
えも聞いたことはあるが、スペースと予算考えれば、微妙ではある。
まあこの辺りは文化への関心高かった小千谷の心意気の表れと言う見方も出来る
かもしれない。
2F奥に郷土図書コーナーがある。片隅といえる場所だが社会科学、自然科学、
郷土技術、郷土芸術、郷土言語、文学などに仕分けされた小千谷、中越、新潟県関
連の約4000冊が並んでいて、背表紙のタイトル眺めるだけでも中々楽しい。
「この人もそうだったのか」と越後の有名人改めて知ることも出来た。
上杉謙信、河井継之助、北一輝、山本五十六、田中角栄、小林一茶、坂口安吾、
会津八一、宮柊二という名前が研究書などでよく取り上げられている。三波春夫も
1冊あった。無名の人では越後瞽女を扱った本も10冊余りが並んでいる。
この棚を見れば新潟県が解る訳でもないが、妙に惹きつけられるものがある。
ある意味この図書館で一番存在感のある棚ではないか、という印象持った。
再び階下へ降り、小説の棚などを一巡り。利用者は新聞雑誌コーナーに固まって
いて、数名がくつろいだ感じで雑誌など広げている。
どことなく、長閑な眺めではある。
同じくカウンターも手持無沙汰気味で、ノンビリムードである。貸出手続きにも
来ないのだから致し方ないねとも言えるが、ピリッとしないカウンターもいかがな
ものか。
この緩さが、2Fで感じた棚に漂う停滞感に繋がっているんだろうな。
ふとそんなことを思った。
NEXT INDEX TOP