大口市立図書館
漂着日 2008年3月
春の旅も佳境に入り、佐賀から福岡、熊本突破して、いよいよ鹿児島へとやっ
て来た。もっとも辿り着いたのは県の最北部で、これより南へ行く予定はなく
鹿児島にはほんの挨拶程度ということになってしまうのだが。
まあ此処が、この旅の大きな目的地であり、九州の折り返し点でもある。
ところで大口と言っても鹿児島離れれば知らないという人が圧倒的だろう。
所縁ある人以外は鉄道マニアと芋焼酎ファンが、ああ彼処かと頷くくらいか。
地理的にいえば先にチラと書いたように、鹿児島県内陸部最北にある市。南
九州なのだが、この辺りは盆地とあって冬は滅法寒く雪も降り「鹿児島の北海
道」とも呼ばれるとか。
歴史に刻まれるような事件も事跡もなく、県の内外から人が押し寄せる観光
名所も持たず、全国的には無名で、旅行ガイドなどにも先ず載っていない人口
2万1千人余の過疎化が進む自治体である。
かつては山野線、宮之城線と鉄路が2本走り交通の要衝でもあったが、ざっ
と20年前、国鉄民営化と歩調合わせるように相次いで廃線となり、現在は自前
の移動手段が無いと行くにも一苦労させられる。
――2008年11月に隣の菱刈町と合併し、現在は伊佐市となっている――
私がなぜ此処へ来たかと言えば、家で旅の計画練っていて「長崎、佐賀から
直ぐ大分へ抜けるのでは味気ない、南九州で何処か行きたくなるような処はな
いか」と思いつつ地図を広げたら大口が浮上してきたからだが、何と言っても
人に知られていないというのがよかった。
「知られざる日本を訪ねる」というのも私の旅のテーマの1つで、なまじの秘
境より此処の方がこのテーマに合致していると思わせるものがある。
それと大口は遠い昔の70年代、私が当時あった九州内の国鉄全線乗り放題の
ワイド周遊券(大阪以遠だと有効20日・発駅からの往復も有効で値段は大阪発
8200円・東京発10700円と1975年版の時刻表に出ている) 使って、九州をよく
旅して回ってた時、何回かは山野線(もしくは宮之城線)に乗って行くことを
考えたこともある。
ローカル線ながら2線が通じ、山の中に結構大きな街が広がっているように
感じたので「どんな処だろう?」と興味持ったからだが、結局「また次回に」
などと先送りするうちに旅の軸足が80年代は北海道へと移って九州とは疎遠に
なり、気が付けば宮之城線も山野線も無くなっていた。
その後鉄道で行けなくなった大口には関心が薄くなってしまい、九州に入っ
ても足を向けることなかったのだが、やはり心に少しは引っ掛かるものがあり、
「この際嘗ての思い果たしてスッキリするか」というのも大口浮上の理由とな
っている。
さて佐賀から鹿児島まで、青春18きっぷでの大移動、と言いたい処だが、
実際は最後に峠越えして大口まで歩いた分を含めても 250km弱だからそれ
ほどでもない。
それでも普通列車しか使えないし、ローカル線は本数も少ないので時間は掛
かり丸1日費やしての移動となった。
昨夜泊まった佐賀吉野ヶ里町の旅館を出発したのは朝7時20分。見送ってく
れたのは90歳という女将である。
昨夜8時前に到着した時はこのおばあさんが1人で待っていてくれた。風呂
の前に御茶とミカン頂いて少し話したのだが、歳を聞いていささか驚かされた。
私もこれまで相当な数の宿に泊まってきたが、さすがにこれだけ高齢の人が
1人だけの宿というのも初めてである。掃除などは通いの手伝いの人がやるそ
うだが、夜は1人で到着する客の応対しているという。
目も耳も、そして頭もまだまだしっかりしている。領収書もちゃんと私の名
前入りで出してくれた。
とは言え50歳代60歳代とはもちろんのこと、70歳代ともまた違う老いという
ものが垣間見えるのも事実である。
今朝出掛けるときは「いつまでもお元気で」と言い置いてきたが、常にも増
して一期一会の思いがつのる旅立ちだった。
長崎本線吉野ケ里公園駅7.43 博多行皮切りに、鳥栖、熊本と乗り継ぎ、八
代では鹿児島本線から肥薩線へスリル満点の1分接続だったが無事クリアー。
もちろん可能かどうかの確認はしてあるが、絶対の保証も代案もないだけに、
人吉行に乗り込めたときは「ホーッ」と溜めていた息吐き出したものだ。
八代からの肥薩線は日本屈指の眺望路線である。人吉までは球磨川に沿って
走る渓谷コース、人吉からは山間縫う山越えコースだが、ビューポイントは後
半に多い。旅客鉄道会社も承知していて、人吉ー吉松間には名称も付いた観光
列車を走らせている。私が乗ったのは「いさぶろう3号」。この名は肥薩線建
設時の逓信大臣に由来している。
女性アテンダントが乗り込み、観光案内の放送も入る。またそういう場所で
は列車も最徐行である。
日本で唯一ループ線とスイッチバックを併せ持つ大畑や矢岳、真幸と築百年
モノの駅が続き、駅舎見物も出来るように7、8分の停車時間も取ってある。
旅行者はノンビリした鉄道の旅を楽しめていいが、この列車は地域の足でもあ
るから日常使う人は各駅毎に待たされ嬉しくはないだろうな。ただ列車に地元
の人の姿はほとんど無く、私の車両では人吉から大畑までの中学生が1人いた
だけだった。
矢岳トンネル越えると、えびの高原、霧島連山一望にし、日本3大車窓にも
入っている矢岳越えの眺望が広がる。私が肥薩線に乗るのもざっと20年振り位
で、以前の記憶はほとんど無いのだが、この眺めだけはかすかにではあるが残
っていた。
序に書いておけば、日本3大車窓の後2つは、北海道根室本線の狩勝峠越え
(ただし新線が出来てスケールは小さくなったと言われる)と長野県篠ノ井線
姨捨駅周辺とのことである。
肥薩線が鹿児島に入った最初の駅である吉松に14.24到着。
此処からは徒歩で大口目指す。1駅先の栗野まで行けばバスもあるが、楽し
てあっけなく着くより、時間掛けて歩いて行く方が何かと面白いので、昔から
条件が許せば歩くことにしている。
今回は魚野越えという軽い峠越えコースでおおよそ20km弱。3月ながら暖
かいというより暑いくらいの陽気になったきたので、Tシャツ姿になり歩き出
す。
前半は人家も疎らな、やや荒れた感じの殺風景な田舎道、後半は単調な国道
歩きと、そう楽しいコースでもなかったが、まあ順調に大口入り。
大口駅跡には18時過ぎ、約3時間半余りで達した。
「到頭来たか」と少なからぬ感慨胸に嘗ての駅前と思しき辺りに立ったが、目
の前に駅舎の姿はない。線路共々遠の昔に撤去されてしまっている。今、駅跡
に建っているのはふれあいセンターという市の施設だが、周囲圧する大きな建
物で、駅に代わって大口の中心とばかりに聳えている。
図書館もこの中にある。訪ねるのは翌日である。
明くる日も快晴。旅館にザック置かせてもらって大口の街を徘徊した後ふれ
あいセンターへ入場。もちろん市のコミュニティ施設だから入場料はいらない。
先ず4Fにある大口歴史民俗鉄道資料館を見学。係員不在で、見学者がで灯
りのスイッチ入れ自由に見て回るようになっている。
石器、土器から昔の民俗資料、そして山野線、宮之城線関連の展示品が並ん
でいるが、主役は鉄道関連である。民俗資料館に鉄道と嵌め込んだ名称からも、
鉄路がこの町にとって大きな存在だったことがよく判る。
図書館は2F。入ったのは11時過ぎ位だったろうか。右側にカウンターがあ
り、その内部に並べられた机ではスーツ姿の男性が3人、事務作業中であった。
図書館というと女性館員が迎えてくれるのが通例であるが、此処にその姿は無
く、このスーツの男性達が逐一カウンターへ出てきて、貸し出し手続きなどを
行っているようである。いつもそうなのか、今日はたまたまカウンター要員が
不在なのかは判らないが、感じとしては多分前者。
4Fの資料館に「教育委員会文化財係は図書館に移動」とかいった表示があ
ったから彼等がそうなのだろう。図書館職員との兼任という訳か。
これまで私が見てきた例では、兼業で回している図書館で感心するような処
は無かった。図書館には「図書館員」がいなければ始まらないのだ。その意味
で此処も期待出来そうにない。
館内は明るく、出来て十何年かは経っていると思うが、まだまだキレイであ
る。閲覧用の机もしっかりしたいいのが入っている。座り心地よさそうなソフ
ァー席もあり、施設的にはまずまずと言えるのではないだろうか。
ただ書架が低いこともあって本はそう多くはなく、全般に古め。80年代に出
版され、東京の区立図書館辺りでは書庫に入っていそうな本が随分並んでいる。
悲惨なのは雑誌で、表紙を見せる「面見せ」で70誌並べられる棚なのだが購
入したと思えるものは12~3 誌しかなく、大半は公益法人などの寄贈誌で埋め
られている。予算が乏しいんだろうが、なんとも侘しい光景ではないか。
この時館内の利用者は私も含め、3、4人で、平日の昼前とはいえ淋しいも
のである。
まあ新着本も雑誌も少ない図書館など、売り物の無い商店も同じなのだから
「客足」伸びないのも当然だろう。
棚もあまり見る気しなくなったので、館内一巡りの後新聞開いて静かに暫く
過ごす。館内も静か。静かなのはいいのだが、人の気配というものが感じられ
ず、1人になったんじゃないだろうなと、時折り顔上げては周り見渡したりす
る。
暫くくつろいだ後、頃合い見計らって市教委へ赴き(といっても図書館内)
職員のS氏摑まえて大口に関する幾つかの疑問に答えてもらった。この人は大
口の歴史、風俗などよく知る人として市役所(地域振興課だったか)が名指し
してくれた。
といっても私はこの地域のことを専門的に調べている訳ではないので、質問
も「大口の人達は何で食べているのか」などごく軽いものである。
メインは「山野線はなぜ山野線なのか?」
要するに路線名決定の経緯尋ねたのだが、どうも定説はないようである。な
るほどと首肯ける推論は幾つか挙げてもらった。
図書館出て再び街を少し散策。旧駅前の一帯は近年再開発で区画整理された
ようで通りも建物も新しい。私としては昔そのままの街並みが残っていてくれ
た方が嬉しかったのだが、来るのが遅すぎたと言うしかない。
商店も種苗店、陶器店、薬局、楽器、菓子、洋品店など結構開いていてシャ
ッター通りにはなっていない。しかし昼下がりの通りに人影はなく、これで商
売になるのかなと思わせる。書店の看板掲げた大型店舗が姿見せたが既に閉店
していた。
ほどなくして大口市街出発。旧山野線山野駅跡まで歩いて駅跡見物し、其処
からバスを使い水俣へ抜けるコースを選択した。
暑くなり、この日もTシャツ姿で歩く。
この後は北上の旅。ひと山越えたな、という思いがあった。
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