台湾火車旅出たとこ勝負

         其の5  台南を歩けば

                7月22日 土曜日  曇時々晴  台湾4日目

 台南2度目の朝。シャワー浴びてリビングへ下りれば新たなゲストが到着してい
た。はむ家は早着も受け入れているので、夜移動して来て朝早く着きそのまま台南
観光に向かう人も結構いるみたいだ。
 着いていたのは台湾人の男性3人組。1人が30代であと2人が20代と見た。最近
は台湾の人の利用も増えてきたという。
 彼らは女ヘルの花さん、さっちゃんと話しながらパンと飲み物で朝食中だった。
はむ家は食事の提供はないから近所の朝食屋さんで買ってきたのだろう。
中国語の会話に参加は出来ないし、1人ポツンと座っているのもあまり好ましい図
ではないので、軽く挨拶して離れようとしたら年長の男性が、中国語で何か言いな
がら小さな紙袋を差し出してきた。きょとんとしていると
 「あげますと言ってます」と花さんが通訳してくれた。
朝食を分けてくれた模様だが、それはあまりに申し訳ない。気を遣ってくれるなと
身振りも交え固辞したが、いいから食べてとばかりに手渡してくれた。
 結局ありがたく戴いたが中味は2枚のトーストの間に具材を挟み込んだ台湾風ト
ーストサンドで結構ボリュームがあり美味しかった。トーストは暖かく、改めて台
湾人のホスピタリティ感じさせるものがあった。
 花さんが紹介してくれる処によると彼らは台北からの台湾空軍の軍人で、台南の
基地で訓練か研修があるので来たという。基地に入るのは月曜でいいので、週末は
はむ家に宿を取り、台南観光と洒落こむつもりらしい。
 台湾は中国と微妙な関係にあるので、戦時体制とは言わないまでも軍人さんなら
少しはピリっと引き締まるもの感じさせてもよさそうだが、3人ともおっとりした
もので、台湾の空は守れるのかと他国のことながら気に掛かる。ただ彼らはパイロ
ットではないとのことだった。

 一旦部屋に戻って支度し、今日も台南の街歩きに出発。もう10時に近かったか。
出掛けにさっちゃんから大型スーパーマーケットの場所を教えて貰った。
 今日もまず歩くのは忠義路。少し雲が多い空模様である。
 昨夕同様民生路に入り、少し歩いて昨日思いがけずその存在を知った国立台湾文
学館へ到達。改めて見るその洋風建築の外観は美しく風格ある。入館時にもらった
中文簡介(中国語パンフレット)に「本館建築主体體為国定古蹟・前身為日治時期
台南州庁(中略)1916年5月竣工。経歴二次大戦砲火轟炸幾毀・本址先整建作為空
軍供應司令部(1949~1969)・後為台南市政府(1969~1997)・其後有「原台南州
庁」保存修復計画的執行(1997~2003)・2003年10月17日・国立台湾文学館正式於
此開館」と記載されていて、漢字はなんとか読めたので来歴おぼろげながら摑むこ
とは出来た。
 なるほど元は日本統治時代に台南州庁として建造されたのか。それゆえ日本の威
信を掛けてこれほど壮麗な建造物としたのだろう。1916年の竣工ということは今年
で築101年になるのか。
 さて入館。台湾は文化行政に力を入れていて、此処も入館料はなし。
 「台湾文学館の使命は台湾文学の発展を記録し、早期の原住民及びオランダ、ス
ペイン、明朝、清朝、日本、戦後などの外来政権統治によるその時代の苦難に満ち
ながらも多様に成長した文学を保存し展示することにあります」と文学館の説明に
はある。
 館内を一渡り見学。台湾文学史に残る著名な作品の紹介などがされていて、展示
によっては日本語の説明が付いているものもあったが、これまで台湾文学に触れる
ことも無く、台湾の文学者一人知ってはいないので、何も判らないままで、台湾文
学に関して理解が深まるということもなかった。ただ落ち着ける空間で文学的雰囲
気に浸ることが出来、私としては悪いものではない。
 「推理文学在台湾」という企画展もやっていたので入ってみたが、こちらの展示
も理解出来たとは言い難い。台湾でも推理小説は盛んに発行され、よく読まれてい
ることは判った。犯人当てゲームのようなものもあったが、これはスルー。

 見学の後、一階の藝文大廳と名前の付いた風格ある大ホールで一休み。広いスペ
ースに12卓ほどがゆとり持って置かれ自由に休めるようになっている。新聞も置い
てあるので手に取ってみたが、中文は判らないから見出し眺めていっただけで、こ
ちらも趣あるホールで新聞手にしてくつろぐという雰囲気楽しんだだけである。
 ホールの壁は赤煉瓦で味わいあるが、どうもこれが嘗ての外壁で、元は庭だった
処に屋根を掛け増築してこのホール造ったようである。多分煉瓦壁を保存する狙い
もあったのだろう。
 ホールから地下へ下りると図書室があるが、それほど大きなものではなく、手続
きが必要みたいなので入らなかった。

 
            国立台湾文学館藝文大廳

 文学館を出れば目の前の圓環には湯徳章紀念公園がある。湯徳章は日本人を父に
台湾女性を母に持つ台南で活躍した弁護士で戦後の二二八事件に連座してこの地で
処刑された。

 1945年十五年戦争(昔はよくこの表現を用いたが最近はあまり見なくなった)は
日本の無条件降伏を以て終息し、日本は台湾の領有権を放棄した。替って台湾の統
治を委ねられたのは当時中国大陸にあった蒋介石を総帥とする中華民国国民党政府
(国府)で、統治のため行政官、軍人、教員などが大陸から台湾へ渡ってきた。こ
の時台湾は中華民国の台湾省となり、予てから台湾にいた者を本省人、新たに大陸
から移ってきた者を外省人と呼び表わすようになった。
 当初本省人はようやく異民族支配から脱し、同胞と共に新たな国家建設が出来る
と中華民国の統治を歓迎し、これを「光復」呼んでいたが、たちどころに失望する
ところとなる。
 やって来た外省人は同胞としてではなく支配者として本省人に臨み、行政機関に
おいても接収して国有化した企業においても本省人は下級職に止め置き主要なポス
トは外省人が独占した。まさに植民地統治そのもので、祖国復帰すれば活躍の場が
与えられるものと思っていた本省人に落胆と怒りを与えた。
 更にやって来た外省人官憲は近代国家というものを理解出来ない低質な者が大半
で、たちどころに汚職、職権を嵩にきた横暴、収奪が蔓延し台湾社会は混乱をきた
した。また粗暴な軍人による狼藉、暴行も頻発し治安も悪くなった。
 本省人たちはこの状態を「犬が去って豚が来た」と嘆いた。犬(日本人)はうる
さいが役に立つ、しかし豚(外省人)はただ食い散らかすだけという意味であるそ
うな。
 折りしも大陸では蒋介石を首魁とする国民党と毛沢東率いる共産党との国共内戦
が激しさを増し、本土の窮乏補うために台湾から米や物資を移出したため物資不足
から米価が瞬く間に何倍にもなるなど悪性インフレの昂進から倒産企業が続出し失
業が増えるなど市民生活を脅かした。
 光復の熱も冷め、本省人の台湾省行政当局及び外省人に対する憤懣は鬱積し、い
つ爆発しても可笑しくない状態になっていた。

  
       二・二八事件
 
 1947年2月27日の夕刻台北の繁華街大稲埕で全員外省人からなる専売局と警察合
同の闇タバコ摘発隊が逃げ遅れた闇タバコ売りの中年寡婦から所持金とタバコを没
収し、更に幼い子供を抱えた寡婦が、それを持っていかれては生きていけないとす
がりつくと銃床で殴打して出血させる暴行を働いた。
 これを遠巻きに見ていた市民が怒り募らせ摘発隊を取り囲んで激しく非難した処
これに恐怖を覚えた摘発隊はその場を離れ近くの警察署に逃げ込んだのだが、その
時威嚇の発砲をし、それが群衆の1人に当たってしまった(翌日死亡)。
 外省人官憲による本省人殺害の報は瞬くうちに市内に伝搬した。
 明けて28日本省人群衆が専売局に押し掛け激しく抗議したが、満足な対応ではな
かったので職員を殴打し、書類や什器、公用車を燃やすなどした。
 さらに膨れ上がった群衆は台湾省長官公署へ移動し、公署前広場で政治改革を求
めるシュプレヒコールを上げるなどしたが、この時公署屋上から衛兵が機銃掃射し
市民に多数の死傷者が出た。
 此処に至って本省人の怒りは爆発し、職場を離れ、学校を離れ万余の市民が抗議
の波に加わった。一部暴徒化した群衆は役所、警察署、外省人経営の商店などを襲
撃し破壊活動を繰り返した。軍、警察は発砲してこれを抑えようとしたが、当時在
台湾の軍は小規模なものだったので鎮圧は出来ず、増々事態を泥沼化させた。
 群衆は台北新公園にあった台湾ラジオ放送局も占拠し、ラジオを通じ台湾全土に
蜂起を呼びかけた。これに呼応し台中、台南、高雄の大都市はもとより中小都市か
ら一部地方まで、多数の本省人が抗議活動に立ち上がった。各地にあっても暴徒化
した群衆は官公署、外省人関連施設を襲い破壊活動を行った。
 外省人への暴行も多発した。外省人と見るや本省人が取り囲み、殴打するなど暴
行を加えたのだ。この時外省人を見極める手段として用いられたのが<君が代>だ
った。日本統治時代を経験している本省人なら君が代は歌えるが、戦後に中国から
渡ってきた外省人は歌えない。君が代を歌うことを強要し、歌えなければ即座に暴
行した。二・二八事件における外省人の被害は死者 398人、重軽傷者2131人、行方
不明者72人であると事件後警備総司令部は発表している。
 3月2日から台北では急遽立ち上がった民意代表の事件処理委員会と行政長官側
による事態収拾の会議が持たれ、6日には本省人の登用や県市長の民選など政治改
革要求が突き付けられている。行政長官側はこれを受け入れるかの姿勢を見せたが
巧妙に時間稼ぎをし、裏では本国へ鎮圧部隊の派遣を要請していた。
 台南でも4日には事件処理委員会が出来、既に台南の名士であった湯徳章も委員
に名を連ねた。この時湯徳章は武力闘争に打って出ようとする学生組織などを説得
し方針を変えさせることに成功した。これが事件後の国府軍による粛清から多くの
若者の命を救うことに繋がり、高く評価されている。

 3月8日から9日にかけ、基隆と高雄から上陸した国府軍の増援部隊はいきなり
機銃を乱射するなど無差別に本省人を殺戮した。この時兵士達は<台湾人不是中国
人殺吧殺吧/台湾人は中国人ではない。殺せ殺せ>と口々に叫びながら発砲したと
いう。武器らしい武器を持たぬ本省人側は抵抗の術もなく瞬くうちに鎮圧されてい
き、数日でほぼ全省が平定された。
 事件後当局は一連の抗議活動を暴動と断定し、弁護士、医師、作家など本省人有
識者を次々逮捕しては正規の裁判に掛けることも無く反乱罪名目で粛清した。行方
不明者も続出したが、これも秘密裡に処刑されたと見られている。
 彼らが騒動を主導したのではないことは判っていたが、事実か否かはどうでもよ
く、狙いは指導者層を根こそぎ抹殺することにより本省人を完全に抑え込む処にあ
った。
 台南にも粛清の嵐は吹き荒れ、湯徳章も逮捕された。そして裁判もないまま3月
13日台南中心部の圓環にある民生緑園で銃殺されている。
 
 二・二八事件における本省人の犠牲者は1992年の行政院(台湾政府)の調査報告
では1万8千~2万8千人となっているが、もっと多いはずとの指摘もある。40年
以上の時が経過していて正確な処は判らないというのが現状である。
 いずれにせよ二・二八事件の衝撃は大きく、本省人と外省人の間に終生埋めきれ
ぬであろう亀裂を残した。

 1949年12月台湾と本省人にとりこれまでの暮らしを一変させるような重大事態が
発生した。国共内戦に敗色濃厚となった蒋介石が国民政府を抱えたまま台湾へ逃げ
込んできたのだ。これによりこれまで大陸から離れた洋上の小さな台湾省が、実質
的に中華民国そのものとなった。
 この時それまで10万人に満たなかった外省人が、国府の移転に伴い大挙して台湾
に渡ってきた。その数諸説あるが多くて約200万人少ない方で120万万位となってい
る。当時本省人は漢民族系、日系、原住民合わせて 約600万人だったから台湾の人
口は一挙に膨れあがったことになる。
 これまでと桁違いの外省人がやってきて頭上に居座ることになったのだから本省
人の苦悶如何ばかりであったろう。

 60万の軍隊を率いて台湾に乗り込んできた(実質は逃げ込んだのだが)蒋介石は
独裁者として君臨し、軍と特務機関を以て強権的に台湾を支配した。移転少し前に
出された戒厳令は解除されず、その後長きに渡って自由な言論や政治活動を押さえ
込んだ。50年代には白色テロとも言われる反体制派知識人に共産スパイの罪名被せ
て(ほとんどが冤罪)連行し、秘密裡に処刑する弾圧が横行したが、これには本省
人のみならず外省人も多数犠牲となっている。この頃は皆特務機関に目を付けられ
ぬよう息をひそめて暮らしていたという。
 現在の姿からは想像できないが、嘗ての台湾は人権も蹂躙された暗黒の島だった
のだ。その状況下では二・二八事件を語ることはタブーであり、台南でも湯徳章の
名を公に口にすることは出来なかった。


        蒋経国と李登輝

 風向きが変わったのは80年代からで、国民党一党独裁(実質は蒋一族独裁)の強
権政治から民主化の道へと歩き出した。
 要因としてはまず民意の高まりがあった。台湾は60年代から工業化を押し進め、
結果中層的的な都市住民が増えたが、彼らは人権意識が高く、政権に対する不満を
抑えなかった。それまでのような活動家と違い広範な大衆の声だけに、政権側もこ
れを弾圧することは難しく、それがまた党外人士(国民党外勢力)の民主化要求に
力を与えた。
 またアメリカの圧力もあった。アメリカは1979年の台湾関係法以来一貫して民主
化を求めていた。アメリカは台湾の庇護者にして当時最大の貿易相手国だったので
その要求を全く無視することは出来ず、徐々にではあるが自由への扉を開いていっ
た。
 更に国民党政権が蒋経国の時代に入って来ていたというのも大きかった。蒋経国
は蒋介石の長男として、老衰で表舞台に立てなくなった蒋介石(75年に死亡)に替
わり72年ころより政権の中枢を担うようになったが、2代目のボンクラではなかっ
たようで、一層の工業化を進めて台湾をアジア有数の豊かな国に導くなど――87年
統計では外貨準備高 760億ドルで日本、西ドイツ(当時)に次ぎ世界第3位につけ
ている――政治手腕もあり、また時代を見る目も持っていた。
 70年代の台湾は<1つの中国論>により国連を追放され、日本始め世界の主要な
国から次々と断交されるなど国際的孤立を深めていた。台湾の将来に絶望した富裕
層の海外流出が相次ぐなど社会不安が広がり国府の威信は揺らいだ。
 この危機を蒋経国は本省人の大胆な登用そして社会インフラの整備と重工業化を
目指した「十大建設」のプロジェクト推進により人心を収攬することで乗り切り、
国民党内での権力掌握も果たしていく。
 おそらく蒋経国はかなり以前より大陸反攻など見果てぬ夢で、国民党政府・外省
人にとっても台湾は仮の宿ではなく未来永劫に渡りこの地で生きて行かなければな
らないことを悟っていたはずである。そしてそのためには本省人の上に外省人が乗
っかった現行の形ではなく両者が融和した形すなわち国民党の台湾化こそが必須で
あることも理解していただろう。72年末には中央民意代表増加定員選挙を行なって
本省人議員を増やすなど本省人の不満和らげる方策も採っている。また週末には市
場や街頭で一般市民と気軽に触れあい、気さくな総統アピールしたが、これも台湾
土着化を目指したものと言えよう。
 ただ台湾化と密接不可分の関係にある民主化にはさほど前向きではなく内乱教唆
罪容疑で雑誌を発行停止にするなど弾圧も続いていた。蒋経国には外来政権が強権
的に統治する体制ではいつか行き詰ることは判っていたと思うが、さりとて民主化
を進めれば圧倒的多数の本省人の天下になることは目に見えている。となると外省
人の境遇も一転するわけで、外省人の総帥たる蒋経国としてはおいそれと民主化に
踏み出す訳にはいかなかったのだろう。
 それでも権威主義の権化のような蒋介石から積極的に大衆と触れ合う親しみある
総統蒋経国の時代となり、経済の順調な発展で豊かさを享受できるようになったこ
ととも相俟って台湾社会は明るく活気に満ち、ものが言いやすい雰囲気も醸成され
てきた。それは当然民主化運動を後押しするものであった。
 
 蒋経国は80年代初めには持病の糖尿病の悪化から手術を繰り返すなど病床に伏す
ことが多くなり再起不能説も流れたが、83年奇跡的に回復し政務に復帰する。そし
てその後徐々にではあるが民主化容認の方向へ舵を切った。これも80年代に入り一
層大きなうねりとなった民主化への流れをもはや止めることは不可能と見極めたか
らではないだろうか。
 蒋経国が総統の後継者問題に触れ、蒋家から出ることはありえないと世襲を完全
に否定したのは85年12月だった。それ以来「民主憲政」を旗印に次々と民主化政策
を打ち出す。86年9月の民主進歩党結成に対しては当時まだ戒厳令下で党禁(新た
な政党の結党は禁止されていた)は生きていたが「違法ではあるが非合法とはしな
い」と最終的にはこれを認めた。そして87年7月には38年の長きに渡り国民を押さ
え付けていた戒厳令が解除される。
 戒厳令解除から10日余り後の7月25日蒋経国は「台湾に住んで40年、私もまたす
でに台湾人である」と発言した。87年当時は省籍にこだわることにさほど意味もな
くなった現在と違い50年代、60年代に比べれば融和が進んだとはいえ未だ外省人優
位で本省人はなにかと割を食うことも多い時代だった。私には発言の真意を読み解
くことは出来ないが(いいこと言ってると好意的には見ているが)台湾に暮らす人
達、別けても本省人はどう聞いたのだろうか。
 88年1月蒋経国は死去し、憲法の定めにより副総統李登輝が総統に昇格する。初
の本省人総統で期待の声も高かったが、学者上がりの敬虔なクリスチャンで権謀術
数には長けて無さそうでもあり、外省人長老が幅を利かす国民党内で主導権を握れ
るのか不安視された。
 しかし李登輝は一層の民主化望む国民の声を追い風として、したたかに党内の権
力闘争を勝ち抜いて盤石の地位を築き、動員戡乱臨時条款の廃止や国民大会及び立
法院の全面改選を成し遂げるなど改革を進め、96年の総統直接選挙実現へと繋げて
ゆく。92年に行われた立法院の全面改選選挙で国民党は民進党を抑えて第一党を堅
持し、政権担うこととなったが、これにより曲がりなりにも国民党の台湾統治に正
当性が与えられたと言われている。見方変えれば台湾に外来政権ではない国民が選
んだ初めての政権がこの時誕生したとも言える。
 この李登輝の「闘争」もう少し詳しく書いても面白いかと思うがそれはまた別の
機会に譲ろう。
 
 国民党独裁政権のもと語ることもタブーで人々の記憶の底に閉じ込められていた
二・二八事件だが80年代になると民主化への歩みと共に真相究明を求める声も出て
くるようになった。87年には党外の有識者により「二二八和平日促進会」が結成さ
れ、事件の真相解明と冤罪被害者の名誉回復を求めて各地でデモ行進や講演会を展
開し台湾社会に強いインパクトを与えた。
 89年嘉儀市に事件記念碑が建てられた。これが初の記念碑で、この時はまだ建設
過程で治安当局による妨害があったという。
 90年総統李登輝は行政院に二・二八事件の調査を命じ発足した調査チームにより
92年2月「二二八事件研究報告」が発表された。もうこの頃には二・二八事件を語
ることもタブーではなくなっていた。
 95年には台北に二二八紀念碑が建てられ、その除幕式で李登輝が中華民国政府を
代表し、嘗ての国民党政府の失政と暴虐を謝罪した。96年には台北新公園が二二八
和平公園と改称され、97年には当時此処から全台湾へ決起呼びかけた台湾放送局を
改装し、事件を語り、当時の資料を展示した二二八和平紀念館を開館している。
 
 台南でも事件の見直しは進み、湯徳章の名を口にすることもタブーではなくなり
彼の行動を讃えることも当たり前となった。そして98年処刑の場所である民生緑園
が湯徳章紀念公園と改称され、2014年には『人権と公理を堅持し義憤を興し正義に
基づく勇敢な精神を大切にしたことにより』命日である3月13日が台南市政府から
「正義と勇気の記念日」に制定されている。

 こうして多年に渡り闇の底に閉じ込められていた二・二八事件は積極的に語り継
がれるようになったが、そこには単に犠牲者を追悼するだけでなく、過去の忌まわ
しい歴史を直視し、和平と族群融和に繋げていこうという決意が読み取れる。
 
 このくだりは「図説台湾の歴史・周婉窈著・平凡社2007年刊」「台湾・戴國煇・
岩波新書1989」「台湾・伊藤潔・中公新書1993」「台湾現代史・何義麟・平凡社20
08」「台湾の歴史・喜安幸夫・原書房1997」「台湾クロスロード・李筱峯・日中出
版1993」「台湾外省人の現在・ステファン・コルキュフ・風響社2008」の各書を参
照し簡単に纏めさせてもらった。これらの本は書店で求めることはもう難しいかと
思うが、図書館の棚には並んでいた。図書館の値打ち改めて感じた次第である。
 
 
      図書館からスーパーそして繁華街

 台湾文学館を後にし、成功路と公園路の角にある市場覗くなど気ままに街を縫う
ように歩いて次に訪れたのは今日も台南市立図書館。わざわざ来たというより行こ
うと思っていたスーパーが図書館と同じ方向だったのでちょっと寄り道したという
もので、それほど長居はしなかった。館内一巡りし、絵葉書を1枚。雑誌コーナー
で文芸春秋(日本で発売されてるのと同じものが置いてある)をパラパラと読んで
きた。
 それから公園北路から西門路と歩いて朝教えて貰った民穂路に建つスーパー大潤
發へ。望み通りの大型スーパーで、此処へ来たのは土産用のドライフルーツ買うた
め。
 私は交友関係も限られてるし殊更宣伝する必要もないので、最初は台湾旅行誰に
も話さぬ積りだったのだが、黙ったままというのもどうかなということで、顔見知
りのオバさん2人だけにはばらしてきた。どちらも偶にお菓子くれたりするのでこ
の機会にお返ししておこう思う。高価なものをあげても負担に感じるだろうし(金
もないのだが)安くて嵩張らず台湾感じられるものは何かないかと調べたらドライ
フルーツがヒットした。台南ではばらまき用の手頃な袋入りが安く買え、質もいい
と何処かに書いてあったのでこれでいこうと決めてきたのだ。
 地下の食品売り場さがし回って、やはりマンゴーだなと1袋 100元のを買ってき
た。生のマンゴーを持って帰れるのならその方が喜ばれそうなので少々嵩張っても
頑張るが、検疫の規定で日本に持ち込めないからドライで妥協するしかない。

 大潤發後にすれば臨安路から海安路と歩いて台南の繁華な一帯へ。永楽市場、水
仙宮市場、神農街、國華街と観光客も多く集まる区域を散歩する。人混みは好きで
はないが、まあ一度くらいどんな感じか見ておくのもいいだろう。
 國華街はそれほど広くない通りの両側に台南名物の小吃(シャオチー・軽食)店
が軒を連ね壮観。店は多いが人も多く行列の店も少なくない。
 國華街を南へ歩いて府前路を越えた保安路に蝦仁肉圓という小吃の有名店があり
前にガイドブックで見てちょっと興味持ったので行ってみたのだが、さすがに混ん
でいて入り辛く、それほどの執着もないのであっさり断念。近くの空いてる店で麺
を食べてきた。
 ここで一旦はむ家へ帰館。台南の旧市街は割りと纏まっているので20分も歩けば
帰れた。17時くらいだったか。改めて思うにはむ家中々便利な場所にある。シャワ
ー浴びてベッドで暫くごろり。今日は眠らず。


         花園夜市へ

 19時頃だったか、夜市へ出掛けるかとリビングまで下りてきたら女性が2人座っ
ていた。小姐ではなく中姐、アラフォー辺りだろうか。泊り客ではなく此処の奥さ
んの友人で地元の人だった。帰りを待っているのだろうか。因みに奥さんは台湾人
で別に仕事しているらしく普段客の前にはほとんど出てこない。
 1人は片言だが、もう1人はそこそこ日本語が喋れる。台湾へ行ったら地元の人
と話もしてみたい。だけど北京語も閩南語も出来ないし英語は怪しいし、日本語喋
る人とうまく会わないものかと思っていただけに絶好の機会がやってきた。
 しかも向こうから「どこ行くの?」とか話し掛けてくれて雰囲気も中々フレンド
リー。「花園夜市だよ」「バス分かるの?」「歩いて行くよ」などと話し出したが
そこから適当な質問が浮かばず話が止まってしまった。旅行者なら「今日は何処か
ら」とか「台湾にはいつまで」とか定番トークで繋いでいけるが、地元の人に「い
つまでいるの」はないしな。と言っていきなり個人的なことも訊けないし、政治・
経済が語れる訳もなく、台湾の人と話したいと思いつつ話すべき内容持ってないこ
とにこの時気が付いた。精々「夜市は地元の人もよく行くんですか」と訊いたくら
いだったか。まあもう少し台湾に馴染んで来れば「これ教えて」ということも出て
くるだろう。
 途中女性から唐突に「マラソンやってるの?」と質問が飛び出しいささか面喰っ
た。確かに嘗て私は市民マラソンクラスだがよく大会に参加し、フルマラソンも何
回も完走している。膝を痛めたのでランナーを廃業し、もう十数年経っているのだ
が体型は当時と変わらないこともあり、長距離走者の気配感じたのだろうか。まあ
そう見られて悪い気はしなかった。
 因みに女性はふっくらぽっちゃりでマラソンとは縁がなさそうではあった。

 暫し会話の後まだ明るさ残る中夜市へ向け出発。今日も単独行。土曜は台南で一
番大きいという花園夜市の日で昨夜の大東夜市とは逆方向の中心街北側にある。大
東夜市よりは近いので、今日も楽勝気分で歩いて行く。
 道も判り易い。民族路から海安路に出て、後は北へ北へ行くだけ。昨夜とは異な
りスンナリと夜市へ到着。此処も広い敷地に夥しい屋台が並び人は犇めき合って流
されるように移動する。
 昨夜同様アミューズメント系に参加することなく、ぐるぐる歩き回って、見物の
み。小籠包と紫米のおはぎようなもの(餡は入っていない)を食べたが味はも一つ
だった。
 再び夜の街トコトコ歩いてはむ家へ。途中海安路沿いの公園通ったら健康遊具が
数種並んでいるコーナーがあり、気が向いたので幾つか試して躰ほぐしてきた。中
でも気に入ったのが直径1m位の金属の輪っかを回すやつで、対極の位置に付いて
いる持ち手摑んで輪っかを回していくと途中で躰が反転して輪っかに対し背を向け
る形になり、苦しい処を我慢して更に輪っかを回すと再度躰が反転して元の向きに
戻るというもの。ちょっと大変だが、肩から腕更に腰と躰も伸び、歪みも矯正され
るような感じがして気持ちいい。気に入ったので回転方向変えながら10回は繰り返
した。

 日付が変わるより大分前にはむ家帰還。リビングでオーナーと女ヘルが飲みなが
ら話していたので参加。この時のため?残しておいた18天台湾生啤酒を冷蔵庫から
出してくる。今夜は他に台湾人の家族と朝会った空軍の人達が泊まっているが日本
人は私だけのようだ。
 グラス傾けつつオーナーのはむさん(みなこう呼んでいる)と明日の予定やはむ
家の歴史など話。今年で開業4年という。此処で宿を開くまでにはそれなりのドラ
マもあったようで、台湾に来て最初は台北で開業しようとしたが、物件が得られず
台南まで下ってきてこの町家と出会ったとか。「この家だけが俺を待っとったな」
との述懐もあり。
 18天生啤酒飲んでしまったら花さんが缶ビール出してくれた。これは柳井氏の置
き土産とか。ありがたく2本戴いた。

 明日から火車旅の再開。南へ行く。

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