倉敷市立玉島図書館
                     
漂着日  2009年3月

 その日の午前中は倉敷市立中央図書館にいた。倉敷駅からそう遠くない以前は
市役所だったという場所に美術館、自然史博物館と並んで建ち、白壁に瓦屋根と
倉敷のイメージに合わせた外観で、規模も延床面積4868㎡、蔵書50万冊
と中々の
ものである――数字は図書館HPから引用――。
 ただ中味の方は至って普通。特にいいなと目を惹く処も無ければ、逆に突っ込
み処もそれほど目に付かない。記すべきほどの出来事も起こらぬまま静かに時は
流れて行き、これではHP1回分でっち上げるのも無理だなと館内巡りつつ、諦
め気味であった。
 と、その時壁に貼られた掲示が目に留まった。それは利用者が意見箱に投じた
質問・要望とそれに対する図書館からの回答で、足を止め順に読んでみた。この
日は6件の質問と回答が貼り出されていて、内5件はひそひそ話をなんとかして
ほしいとかゴミ箱に関してとかで、あまり興味湧かなかったが、1つだけ返却ポ
ストについて注文付けたものは面白かった。
 メモを取ってないので正確な文章の再現は出来ないが、大意は次のようなもの
である。

 意見「同じ倉敷市立なのに玉島図書館の返却ポストには資料を傷めないための
クッション性がある袋を備えているのに対し、中央図書館にはその用意が無い。
中央も常備すべきではないですか」

 ほう玉島図書館には袋の用意があるのか。私は借りた本はカウンターに返却す
るのを旨としているので、通常返却ポストを使うことは無く、目を向けることも
皆無に等しい。もう10年以上前になるか、明日から旅行へ行くという夜に返し忘
れた本が1冊あることに気づき、最寄りの図書館まで自転車走らせて投函してき
たというのが唯一の記憶で、その折は袋などなくそのままの投函であったが、確
かにかなりな距離を落ちた気配があり、本を傷めたかといい気分ではなかった。
何処の図書館も底にマット位敷いてあるだろうが、袋があれば本の傷みは抑えら
れるだろう。
 玉島とは何故対応が異なるのかと問われた中央図書館の回答はこうであった。

 回答「玉島と中央では返却ポストの構造が違います。玉島は普通の箱なので、
投入口から底まで距離があり、落下の衝撃で本が傷むのを防ぐため袋を用意して
います。これに対し中央のポストは底が可動式で、空の時は投入口近くまで持ち
上がっていて、投函された本が溜まってくると重みで徐々に下がるようになって
ます。従って本が大きく落下することはなく、袋は必要としないのです」

 なるほど、そういうことですか。底が上下する返却ポストがあるとは初めて知
ったが、この回答には質問者も納得だろう。
 思うにこういう質問と回答の公開他の館でも大いにやるべきではないか。図書
館によって御意見承りの箱を置いてる所ない所、また積極的に回答する所、特に
要求されなければ聞きっ放しの所など様々だが、誰でもが読めるよう掲示までし
ている所は残念ながら少ない。
 私に言わせれば其れはもったいない話で、利用者の疑問に答え、それを皆が共
有することで図書館への理解も深まると思う。この返却ポストの件など格好の例
で、この質問と答えが貼り出されるまでは、少なからぬ利用者から「中央は本を
粗末に扱っている」と誤解されていたかもしれず、それが一挙解消となったろう
から公開の意義は大きい。むしろ質問が来るのを待ってるより、年に2回位は図
書館側から来館者に「何かご意見は有りませんか?」とリサーチかけてもいいの
ではないだろうか。

 そして、この返却ポストに関する質問と回答読むうち、私の中で玉島という地
名に反応するものがあった。「そうか玉島にはまだ行ってなかったなあ」ともう
すっかり忘れてしまっていた過去の関心が蘇ってきたのだ。

 玉島は岡山県の西部、瀬戸内海に注ぐ高梁川の河口に開けた港町で、江戸時代
には西国航路の船も入り物資の集散地として繁栄した。「備中の玄関口」とも呼
ばれていたと言う。
 明治に入り汽船の時代となると水深のなさが災いして物流の中心からは後退し
たが、浅口郡の主邑として浅口郡役所、玉島電信局など行政、産業、教育等の施
設が集まり、それなりに賑わってはいた。1881年には玉島紡績が操業を始めてい
るが、これは紡績業では岡山県初で、よく知られる倉敷紡績より8年早い。ただ
し後年破産して倉紡に吸収されてしまうことになる。
 戦後は主たる産業を育てられぬまま衰退し、いつしか古い町並みが残る田舎町
程度の認知度になっていった。玉島市(1952年市制)という独立した自治体だっ
たが1967年児島市、倉敷市と合併して倉敷市となり、現在は倉敷市玉島地区と呼
ばれる。古い統計見れば、合併直前で人口5万7千人ほどであった。近年は水島
コンビナートのベッドタウン的存在で、玉島地区全体では人口は増えている。た
だ中心部の空洞化は進んでいるという。

 私は玉島の名は1970年頃には耳にしていたが、興味を持ったのはその10年ほど
後だろうか。中々趣ありそうで、昔の町並み散歩もいいかなと、行く気は充分だ
ったのだが、何故か果たさぬままだった。市街地が山陽線の駅から2㎞ばかり離
れているのも多少影響あったかもしれないが、まあその辺りは巡り合わせという
ことになるだろうか。 何時しかその存在もすっかり記憶から抜け落ちて、前日
も倉敷泊まりだったが、玉島のことは露ほども浮かんでこなかった。
 それが倉敷中央図書館の掲示により俄かに立ち現れてきた。これは行けという
ことか――暗示に掛かり易い人間でもあるので、予定外の玉島訪問急遽決断に至
った。

 ほどなく中央図書館を辞し倉敷駅へ赴いたが、電車に乗る前にまず駅前の観光
案内所へ。玉島の情報何も持ってないし、過去に調べた記憶も薄れてしまってい
るので、同じ倉敷市だから此処に何かあるだろうと立ち寄った。
 玉島エリアも入った倉敷の観光地図と玉島商店街振興会発行の「玉島商店街あ
るあるマップ」それと玉島市街へ行く井笠バス時刻表などを入手。これで迷わず
行けそうだ。
 そして此処で聞いた処では、今玉島は江戸時代からの町並みもさることながら
近年は「昭和レトロ」が注目され、高度成長期の頃に造られた年季の入ったアー
ケード街が結構人気呼んでるらしい。
 私も昭和に育った人間だから、レトロな商店街には何処か懐かしさ感じるし、
そぞろ歩くのも好きである。これは玉島訪問に楽しみが一つ増えた。


 田辺聖子が「感傷旅行」で第50回芥川賞を受賞したのは1964年1月だったが、
3月には文芸春秋新社から同名の単行本が出版されている。これは5作からなる
短編集で、その中に「玉島にて」という作品が収録されている。巻末の初出誌一
覧を見ればこの短編小説は62年に同人誌<航路6号>に発表していて、芥川賞受
賞作が63年航路7号掲載なので本格デビュー一歩手前の作品と言えそうだ。
 内容は作者の分身のような駆け出し作家の主人公と母親が、終戦後すぐのころ
母の姉を頼みに食糧の買出しにきて何日か(1泊だけと読めなくもない)過ごし
た玉島を十何年後かに再訪して歩き回るという実話ベースのものだが、その主た
る目的は主人公が雑誌に連載中の小説の「そのラストシーンに、玉島のことがか
きたくてならなかった」ことによる取材であった。
 まだ混乱の極みにあって、食べることも覚束なく、バラックの透き間から星を
数えながら寝に就いていた焼土の大阪から来た主人公には、人間が人間らしく暮
らしていた玉島は「夢でうしなわれた追憶のなかの町」にも思え強烈な印象を受
けて帰るのだが、それが十何年後も残っていて「あのとき感じた新鮮なおどろき
を、小説の最後に象嵌して、(連載小説の)女主人公に生きる希望を与えてやり
たかった」から春の玉島を見たいと思いやって来た。
 中々の思い入れであり、人と風土の幸せな出会いと言えるのだろうが、2度目
の玉島は初めての時のような感動を与えることはなく「ありふれた汚ない田舎ま
ち」などと書かれてしまうし、母が買った土産も「良寛せんべい、良寛もなかと
いったふうな、どこにでも売っているありきたりの、不味そうな菓子」と情け容
赦無く切り捨てている。
 登場人物もひねくれていたり、姑息だったり、ケチだったりしていて、まあ読
んで気持ちいい小説ではない。芥川賞作家の小説の舞台になっていることでは喜
んだであろう玉島の人達も読後感は複雑だったのではないか。
 ただ田辺は2度目の玉島に落胆したものの、当初の計画は変えることなく、当
時連載中だった「花狩(婦人生活1958年3月~12月)」の終章に玉島を登場させ
良寛和尚所縁の円通寺を最後の舞台に選んでいる。

 玉島への最寄駅は倉敷から山陽本線で西へ2つ目の新倉敷駅となる。この駅は
かつては古来から伝わる「玉島」という名だったが、75年山陽新幹線の博多延伸
に際し、倉敷駅乗り入れが出来なかったため此処に新幹線の駅が併設されること
になり、どういう訳か――まあ倉敷を強調したかったのだろう――こんな面白く
もなんともない駅名に変えられてしまった。
 行こうとする旧市街は駅から2㎞余り離れている。バスの時刻表も貰ってきた
が、私の流儀ではやはり徒歩。駅前通りから産業通りという広くて殺風景で何処
か郊外のバイパス感じさせる通りを行く。
 大雑把に言って、駅から南へ行って西へ折れ更に南へ行けば旧市街に行けるの
だが、西へ転ずるタイミングを摑み損ね、旧市街の東側を行き過ぎかけた。幸い
教えてくれる人あり、方向転じてなんとか目的の地帯に辿り着いた。
 
 旧市街の東側から入っていく形になったのだが、まず現われたのが通町商店街
というアーケードで、さすが近年人を呼ぶというのも頷けるレトロ感がある。そ
れも半端なものではない。アーケードも地震来たら大丈夫かと心配したくなる年
代物で、1960年代髣髴とさせる。
 此処が玉島最古の商店街で長さ 230mあるというが、空いてる店はほんの僅か
で、午後もまだ早い時間というのに通りは薄暗い。そして人が全く見えない。
 「昭和の時代」と「昭和レトロ」の違いとは人気の在る無しか。昭和の頃には
この通りも人で溢れ、町も元気だったんだろうなと思えば、風情感じるより哀愁
に心重くなる。
 通町商店街を過ぎ右折して川を越えれば、港町商店街、栄町商店街、アーケー
ドの銀座商店街などがジグザグ状に続く。状況は通町と変わる処ない。また現状
は、話聞きつけた物好きが勝手に来ているだけで、特に地元として観光に力入れ
てる節は無い。
 少し離れた清心町商店街というアーケードが、東から来た場合幾つも連なった
商店街の締めということになるか。此処はまだ明るく、開いてる店も多かった。
ただ人はやっぱり少ない。商店街マップ見れば少し北にある倉敷市役所玉島支所
(旧玉島市役所)や玉島文化センターの辺りにも店舗が沢山載っていて、繁華街
の分散化が進行しているのではないかと思える。
 その後江戸時代の商家建築や土蔵が残る新町通りも散策。昔の建造物はやはり
存在感がある。ただそれらは点在なので、全体として見れば、江戸時代の建物も
残る昭和の町並みという印象が勝ってしまう。
 先へ行くと良寛さんが修業したという円通寺というお寺があり、玉島の観光名
所なのだが、こちらは余り関心ないので足は向けなかった。

 玉島図書館は商店街が連なる辺りからそう遠くはないが、川を越えることもあ
りかなり雰囲気違って見える住宅地の一画に、簡易裁判所と隣り合って建ってい
る。平屋の独立館で、周囲には緑も多く、中々の佇まいである。
 近づくと、玄関脇の壁面に嵌め込まれたプレートが目に入った。何かと思えば
「玉島図書館の歌」とある。此れは珍しい。以前訪ねた徳島県の鳴門市立図書館
で閉館のお報せにオリジナルの図書館の歌を流しているのを聴いて「こういうも
のを作っている処もあるのか」とちょっと不思議な思いしたことがあるが、それ
以来図書館の歌に遭遇2例目である。

    玉島図書館の歌    赤沢典雄作詞   山下和子作曲

 1.君見ずや 浜なでしこを 憩いの窓に わがライブラリー 波青し
 2.君鳴らせ 海ほおずきを 希望の窓に わがライブラリー 波白し
 3.君拾え  波のまさごを 真理の窓に わがライブラリー 波奏づ

 というものであったが、後で調べた処では作詞の赤沢氏は玉島図書館の初代館
長、作曲の山下氏は中学の先生とのことだった。1952年12月の発表とあり、この
年は玉島町から玉島市に昇格した年だが、それを記念して作られたのかなとも思
う。
 倉敷市立図書館のHPに出ている沿革に依れば、玉島町立図書館が開館したの
が1949年3月で、64年3月玉島市立図書館開館、更に88年5月倉敷市立玉島図書
館新館開館となっていて、どうもこの建物で3代目らしい。2代目の何処かにも
図書館の歌は掲げられていたのだろうか。

 入口から入れば前方が児童のエリアで右方向に一般図書室が広がっている。そ
してその境目にカウンターがある。ワンフロアーにほぼ総てが納まっていて、そ
う大きな施設ではないが、明るく開放感がある。割りとゆったりして居心地悪く
はなさそうと感じた。席は4人用円卓やスツール、窓際の椅子など新聞雑誌コー
ナーも含め一般で70席ほどはあるか。後40席の学習室(名称は研修室)もある。
 平日の午後だが、館内はまずまずの賑わい。玉島で今一番人が集まっている所
かもしれない。
 田辺聖子「玉島にて」にはほんの少しではあるが図書館が登場する。「せまい
バス通りにある普通の民家」「港のみえる2階の閲覧室で…」などと書かれてい
るが、田辺の玉島再訪が58年と見られるから、建物はまだ町立の頃からの初代だ
ったはずだ。今の3代目とは比べるべくもないささやかなものだったことが窺え
るが、その分玉島の町並みには馴染んでいたんだろうな。

 分類はもう一つ。3次止まりが多いが、日本史などは4次。新着本には4次も
かなり見られるので切り換え中だろうか。ただ現状では 291日本地理も地域別に
なってないし、289伝記も通常日本、東洋、西洋の3分類の処日本と外国の2分
類で、しかも被伝者名の50音で並んでいないなどごちゃ混ぜが多く目に付き、利
用者の利便性も少しは考えるべきではないかと、苦言呈したい。

 その他何点かは目に付きメモも取ったのだが、この日倉敷中央にいる時から余
り調子が良くなくて玉島でも何か集中力に欠けていたせいか、記憶の定着度が悪
く、メモとうまく繋がらない。いつもなら後でメモを見ればその時の棚の情景浮
かんでくるものが、この日に限って霧の彼方である。
 メモに「 494 4ケタなのだがゴチャ、350位」とあり、これは494外科学がラ
ベルは4次対応になっているにもかかわらず、それを無視して3次止まりの 494
1枠に約 350冊をごちゃ混ぜで突っ込んでいる、ということで間違いないとは思
うが、棚が浮かんでこないので、も一つ確信が持てない。
 同様なのが幾つかあって、不確かなものを書く訳にいかないのでそれらも取り
上げないことにした。従って今回図書館そのものに関してはそれほど触れぬまま
幕とさせてもらう。

 雑誌など読み、暫くゆっくりさせてもらって退館。夕暮れ近い街へ出、駅へは
回り道になるが再び商店街を抜けて行こうと歩き出したら、少し行った所で私を
玉島へと誘うきっかけとなった返却ポストの袋を見てくるのを忘れていることに
気が付いた。まだそれほどの距離でもなかったが「引っ返してまで見るほどでも
ないか」と結局踵は返さず。しかし玉島離れた後でどんなものだったんだろうと
また気になり出した。まあこれはこの次玉島散歩に来た時の楽しみの一つにとっ
ておこう。

            
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